護國寺は将軍徳川綱吉の母桂昌院の発願で、
大聖護国寺の亮賢僧正を招き、
幕領高田薬園の地を与えて堂宇を建立。
天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、
寺領三百石を賜ったことに始まります。
以後も将軍家の祈願寺として栄えますが、
檀家を持たなかった為に維新後は衰退して、
5万坪の寺域の半分を宮家の墓所とし、
5千坪を陸軍用墓地として、
境内を2万坪ほどに縮小した後、
新たに墓所が造営されました。
ここに維新の元勲らの墓があります。
「仁王門」。
護国寺の巨大な表門。 正面に金剛力士像、
背面には二天像が安置されています。
正確な建造年はわかっていないようですが、
本堂より少し後の頃のものとのこと。
「観音堂(本堂)」。
元禄10年に約半年余りで完成した本堂で、
元禄建築の粋を結集した大建造物。
関東大震災や東京大空襲に襲われながらも、
焼失することなく現存しています。
訪問時は防災イベントをやっていたようで、
消防士等がたくさん境内にいました。
「梔園小出翁碑」。
境内に建てられた3つの碑のひとつで、
歌人小出梔園の顕彰碑。
浜田藩士松田三郎兵衛の四男に生まれ、
同藩士小出英晴の養子となり、
藩主松平武聰の近習を務めました。
明治10年に宮内省に出仕して、
文学御用掛、御歌所寄人等になっています。
他の碑は「報国六烈士碑」と、
「棋聖宗印之碑」。
幕末に関係ないので割愛。
「公爵山縣家累代墓」。
観音堂の横にある公爵山縣家の墓所。
これが山縣有朋の墓かと思ったら、
別の場所にありました(後追)。
「従一位勲一等田中光顕之墓(右)」、
「田中家先祖濱田氏累代墓(左)」。
土佐藩の志士で後の宮内大臣田中光顕の墓。
隣は累代墓ですが旧姓濱田氏も合葬。
土佐藩家老深尾家家臣浜田金治の長男で、
武市半平太の土佐勤王党に参加し、
元治元年に脱藩して長州藩を頼りました。
高杉晋作の唯一の弟子であったとされ、
大坂に潜伏して大坂城の乗っ取りを計画。
しかし新選組に察知されて逃亡し、
以後は長州藩で幕府と戦っています。
後に帰藩して中岡慎太郎の陸援隊に加入。
中岡の死後も同隊を率いました。
維新後は新政府に出仕しており、
明治4年の岩倉使節団にも同行。
明治31年には宮内大臣となり、
天皇親政派として大きな勢力になります。
志士遺族の庇護や遺品等を収集し、
維新烈士の顕彰に尽力しました。
「従一位大勲位伯爵大隈重信墓」。
一際広い墓域を持つ大隈重信の墓所。
門が閉じられていましたので、
この写真はその隙間から撮影。
佐賀の墓は普通の大きさですが、
ここのはかなり巨大です。
※記事はこちら。
大隈は維新後に小松帯刀に推挙されて、
外国事務局判事などを務めます。
浦上信徒弾圧事件での英国の抗議に対し、
諸外国との交渉で手腕を発揮。
財政や殖産興業にも携わりますが、
明治十四年の政変で下野します。
大隈は立憲改進党を設立し、
明治中後期の自由民権運動に参加。
また東京専門学校(現早稲田大学)を設立し、
人材の育成にもあたります。
伊藤博文内閣の外務大臣を務め、
玄洋社の来島恒喜による爆弾テロで、
右足を失っていますが、
後に薩長以外初の内閣総理大臣に就任。
明治40年に政界を引退し、
その後は教育に力を注ぎますが、
大正3年に再び内閣総理大臣に任命すると、
在任中に第一次世界大戦が勃発し、
ドイツに宣戦を布告。
山東半島や南洋諸島からドイツを駆逐して、
中華民国に対華21カ条要求を行いました。
大正5年に総辞職して政界から完全に引退。
大正11年に死去しています。
「故内大臣正一位大勲位三条公神道碑」。
明治天皇の勅命による三条実美の神道碑。
勅命の神道碑は勅撰碑ともいうようです。
「感舊之碑」。
これも三条の碑で没翌年に建てられたもの。
四条隆謌や東久世通禧など、
七卿落ちの盟友が三条の死を悼んでいます。
「内大臣正一位大勲位三条公之墓」。
二つの鳥居の先にある三条実美の墓。
権中納言、攘夷勅使、国事御用掛等を務め、
尊皇攘夷派公家の中心的存在でしたが、
八月十八日の政変で失脚して長州に下り、
第一次長州征伐後に大宰府に移ります。
王政復古後は議定、右大臣等を務め、
明治4年に太政大臣に就任しました。
内閣制度創設後は内大臣となり、
2代黒田内閣の総辞職後は臨時首相を兼任。
明治24年に死去しています。
死因はインフルエンザによるものという。
「正二位伯爵山田顕義墓」。
日本大学学祖山田顕義の墓。
長州藩の兵学者山田亦介の甥で、
松下村塾の門下生市之允(通称)は、
高杉晋作、久坂玄瑞らと尊攘運動に奔走。
大村益次郎に学んで才能を開花させ、
幕長戦争では丙寅丸で奇襲を成功させた他、
芸州戦争で御楯隊を率いて戦っています。
鳥羽伏見の戦いや北越戦争等に参加し、
箱館戦争では海陸軍参謀として参戦。
新政府軍の勝利に大きく貢献しました。
維新後は兵部大丞に就任し、
大村益次郎暗殺後はその遺策をまとめ、
兵部省の確立に尽力。
岩倉使節団に随行して欧米を視察した後、
山縣有朋との対立によって陸軍を追われ、
西南戦争にも出征命令は出ませんでしたが、
戦況悪化に伴い別働第二旅団長として出征。
城東会戦や人吉戦で戦果を挙げています。
戦後は工部卿、内務卿、司法卿を歴任。
第1次伊藤内閣の司法大臣に就任し、
黒田内閣、山縣内閣、松方内閣でも留任。
法典整備に尽力し日本法律学校を創設。
※現日本大学。
明治25年に生野銀山を視察中に卒倒し、
そのまま死去しています。
護國寺墓地には維新の元勲らの墓の他、
盛岡藩南部家の墓所もありました。
※記事はこちら。
最後に山縣の墓所へ。
墓所は門が閉じられて入る事が出来ません。
先程の大隈重信の墓所も同様なのですが、
門から覗いてどうにか写真は撮れました。
ですが山縣の墓は門の正面ではなく、
しかも木々が邪魔しています。
「元帥公爵山縣有朋墓(左)」、
「公爵夫人山縣友子墓(右)」。
なんとか写真が写せる位置を探しました。
山縣については語るまでも無いのですが、
足軽出身でしたが奇兵隊軍監となっており、
明治維新以降も軍部の中枢に君臨。
3代、9代の内閣総理大臣も務め、
軍政家としての地位を確立しています。
妻の友子は湯玉の庄屋石川良平の長女で、
山縣が見初めて結婚を申し込んだとされ、
石川ははじめ了承しませんでしたが、
高杉晋作が山縣は必ず出世する男だからと、
石川を説得して了承させたという。
また婚礼の際に晋作が危篤となっており、
新郎不在の宴会が行われた逸話もあります。
※記事はこちら。
山縣と友子は3男4女を授かっていますが、
娘一人を残して他の6人は早逝しており、
友子も42歳で死去しました。
後に山縣は芸者貞子を内縁としたものの、
貞子を継妻とすることはなく、
山縣の横には友子が眠っています。
これにて護国寺の墓所巡りは終了。
まだまだ幕末の人物が眠っていそうですが、
短い訪問時間ではこれが精一杯でしょう。
またの機会に訪問してみます。
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246万6532柱の祭神を祀る招魂社。
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徳川幕府の本拠地。