佐賀県出身の総理大臣は大隈重信のみです。
薩長土肥の一角を担う佐賀県にしては少ない気もしますが、
山口県の8人が非常に多いだけで、鹿児島県も3人ですし、
高知県も2人と意外に薩土肥は少なかったりします。
そのことから田布施システムという妄想が、
未だにネット上に書かれているのでしょう。
話はそれましたが、大隈重信の生家と墓所を訪問しました。
大隈は日本初の政党内閣の総理大臣ですが、
一般的には早稲田大学の創始者として知られており、
共に私立大最高峰と称される慶応義塾大学の創始者福沢諭吉が、
政治家ではなかった(政治活動はしていた)ことから、
大隈が政治家だったということを知らない人も多い。
福沢は思想家で、大隈は政治家でしたが、
二人の仲は良かったようで、早稲田大学の創設も、
福沢の助言によるものという説もあります。
大隈は佐賀藩士大隈信保の長男として、
佐賀城東側の会所小路に生まれました。
生家は現存しており、国指定史跡となっています。
「大隈重信旧宅」。
現在保存修理中で、見学ができないとの事。
せっかく来たのに・・・。
大隈家は300石取りの上士で、代々火矢頭人を務める家柄。
幼名を八太郎と云い、7歳より藩校弘道館に学びます。
旧態依然の儒学教育に反発し、校内同志らと改革を訴え、
保守派の学生と対立して、殴り合いとなり退学させられます。
国学や蘭学など新しい学問を学び、藩が設置した蘭学寮に入学。
蘭学寮が弘動館に合併されると、弘道館蘭学教授となります。
慶応元年には長崎にある佐賀藩の英学塾致遠館の教頭格となり、
校長であったグイド・フルベッキに英語を学ぶ。
慶応4年に大隈は副島種臣と脱藩して、
大政奉還を将軍に勧めることを計画しますが、
大した結果を得られぬまま捕縛されて、謹慎処分を受ける。
大隈は維新後に、薩摩の小松帯刀に推挙されて、
外国事務局判事などを務めます。
浦上信徒弾圧事件における英国の抗議に対し、
交渉などで手腕を発揮。財政や殖産興業にも携わりますが、
明治十四年の政変で下野します。
下野した大隈は立憲改進党を設立して自由民権運動に参加。
また東京専門学校(早稲田大学)を設立し、
人材の育成にもあたります。
明治21年に伊藤博文に召喚され外務大臣として政界に復帰。
玄洋社の来島恒喜の爆弾テロで右足を失う不幸にみまわれますが、
明治31年に薩長以外からのはじめての内閣総理大臣となりました。
明治40年に政界を引退し、教育活動に力を注ぎますが、
大正3年に大命降下で再び内閣総理大臣となります。
在任中に第一次世界大戦が勃発し、ドイツに宣戦を布告。
山東半島や南洋諸島からドイツを駆逐して、
中華民国政府に対して対華21カ条要求を行いました。
大正5年に総辞職し政界から完全に引退。
大正11年に胆石症で死去しました。
「大隈記念館」。
旧宅の隣には、大隈記念館が建てられています。
館内には遺品などが展示されており、
中でもテロで失った右足を補うために使用された義足は、
なんとも痛々しいものでした。
その他早稲田大学関連の展示もされていますが、
早稲田大学出身でもない僕には、あまり興味が湧きません。
「大隈重信候之像」。
記念館の敷地内にある銅像。
大隈の銅像といえば、国会議事堂内にあるものと、
早稲田大学の2体が有名ですね。
この像は大隈と同じ身長とのことで180cmあります。
大隈は当時としては大柄で、歴代総理の中最も背が高いとか。
写真は逆光でほとんど影になってしまいましたが・・・・。
生家より、佐賀城の西側の大隈家の菩提寺へ。
「龍泰寺」。
龍造寺隆信が創建した寺院で、龍造寺家の菩提寺。
隆信の墓もここにあったようですが、
藩主鍋島直大による龍造寺家、鍋島藩主家の改葬事業により、
ここにあった隆信の墓は高伝寺に移されました。
この龍泰寺は大隈家の菩提寺でもあり、
門前に大隈家墓所があります。
「大隈重信の墓」。
大隈重信は東京の護国寺に眠っていますが、
この龍泰寺にも大隈重信の墓があります。
時代的には珍しい五輪塔の墓石ですね。
本堂には切断した右足も安置してあるらしいのですが、
もちろん公開はされていません(あたりまえか・・)。
■関連記事■
・福岡県福岡市 崇福寺(福岡藩主黒田家墓所)
崇福寺の玄洋社墓所には、爆弾テロを仕掛けた来島恒喜の墓も。
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大隈も通った料亭「富貴楼」。
・佐賀県佐賀市 弘道館記念碑
大隈は佐賀藩校弘道館の蘭学教授を務めています。