東京都豊島区 雑司ケ谷霊園

江戸時代の庶民の埋葬は、
幕府によって定めた寺請制度により、
各寺院に檀家の埋葬が行われていましたが、
明治政府朱引内での埋葬を禁ずると共に、
墓地取扱規則」を設定して、
東京府内9ヶ所を公共墓地を指定しました。

雑司ケ谷霊園もそのひとつです。

東京都雑司ケ谷霊園」。
作家文化人の墓が多い事で知られ、
池袋駅からも近く散策も多いという。
訪問時は朝方で平日であったせいか、
通勤に墓地を通っている人達が多い印象。

幕末の人物の墓をメインに掃苔。

川本家」。
日本化学の祖と称される川本幸民の墓。
川本幸民は三田藩の藩医の子として生まれ、
江戸に出て蘭医足立長雋坪井信道に師事。
蘭医学の他に物理化学も学び、
天保3年に帰郷して藩医になってます。
蘭書翻訳やマッチの試作を行っていますが、
刀傷事件での蟄居処分や火事で生活は困窮。
この幸民の噂を聞きつけた島津斉彬は、
幸民を江戸の薩摩藩邸に迎え、
翻訳の他、薩摩に赴いて技術指導も行い、
薩摩藩の西洋技術の習得に貢献しました。
維新後に再び帰郷し、私塾の英蘭塾を開校。
後進の教育に尽くしましたが、
子の清二郎太政官出仕と共に上京し、
明治4年に死去しました。
幸民は浅草曹源寺に埋葬されたようですが、
明治34年にここに改葬されたようです。
※墓の位置1-2-1


従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓」。
幕臣岩瀬忠震の墓。
旗本設楽貞丈の三男として生まれ、
岩瀬忠正の婿養子となり岩瀬家を継ぎ、
阿部正弘に見出されて外国奉行に昇進。
日露和親条約日米修好通商条約等、
許条約の締結の貢献しましたが、
将軍継嗣問題で一橋派であった為に、
安政の大獄で蟄居処分となり、
そのまま文久元年に死去しています。
文京区の蓮華寺に埋葬されていましたが、
後にここに改葬されました。
※墓の位置1-1-8


加藤家之墓」。
帝国大学第二代総長加藤弘之の墓。
出石藩士加藤正照の嫡男として生まれ、
江戸で佐久間象山坪井為春に学び、
長崎でフルベッキに学んだ後、
幕臣に取り立てられました。
維新後も新政府に取り立てられ、
外務大丞元老院議官
勅選貴族院議員帝大二代総長、
初代帝国学士院院長を務めています。
※墓の位置1-4B-3


小栗家累代之墓」。
小栗忠順は旗本小栗忠高の嫡男に生まれ、
文武に優れて若くして頭角を現し、
遣米使節目付としてポーハタン号で渡米し、
帰国後は外国奉行に就任。
ロシア軍艦対馬占領事件で辞任した後、
勘定奉行に就任して軍艦の購入や、
横須賀製鉄所の建設等、
積極的な強兵政策を実施しています。
旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いに敗れ、
徳川慶喜が江戸に帰還すると、
小栗は徹底抗戦を主張しますが、
慶喜はこれを受け入れずに小栗を放免。
これに小栗は領地への土着願書を提出し、
上野国の権田村に移住しましたが、
東山道軍によって捕らえられ、
取り調べも行われずに斬首されています。
小栗の遺体は旧領権田の東禅寺にあり、
この墓は婿養子小栗貞雄の建立したもの。


墓碑の裏には小栗上野介と刻まれています。
※墓の位置1-4B-5


千葉定吉政道之墓(左)」、
千葉重太郎一胤之墓(右)」。
北辰一刀流の創始者千葉周作は、
北辰夢想流中西派一刀流を合法して、
北辰一刀流道場玄武館を開設。
神道無念流道場の練兵館や、
鏡新明智流道場の士学館と共に、
江戸三大道場と称されています。
この千葉定吉は周作の弟で、
玄武館の創設に関わっており、
後に桶町に自らの道場を開きました。
桶町の千葉道場は玄武館の下位道場で、
これが後の世に知られた理由は、
門下生の坂本龍馬の存在。
龍馬は剣術修行の為に江戸に遊学し、
桶町千葉道場に入門して学んでいます。

千葉重太郎は定吉の嫡男で、
父の定吉が鳥取藩に召し抱えられ、
江戸藩邸の剣術師範に就任したことにより、
千葉道場を任されていました。
後に重太郎も鳥取藩に召し抱えられ、
藩内尊攘派の河田左久馬らとも交友。
龍馬と勝海舟の暗殺を企てた事も知られ、
生野の変北垣晋太郎原六郎らを匿い、
戊辰戦争にも従軍しています。
※墓の位置1-6-5


小泉八雲之墓」。
ギリシャ人作家小泉八雲の墓。
明治23年に出版社の通信員として来日。
後に通信員を辞めて英語教師となり、
松江、熊本、神戸等に赴任した後、
東京に移住しました。
欧米に日本文化を紹介する著書を、
数多く遺しました。
※墓の位置1-1-8


女醫荻野吟子之墓(右側自然石の墓)」。
近代日本最初の女医荻野吟子の墓。
武蔵国俵瀬村名主荻野綾三郎の娘に生まれ、
隣村の名主の息子と結婚しましたが、
夫に淋病をうつされて離縁しています。
大学東校で治療を受けて完治しますが、
男性医師に下半身を晒した屈辱の経験から、
東京女子師範学校好寿院に学び、
医業開業試験願を数度却下された後、
明治17年にやっと許可されて合格。
湯島に診療所産婦人科荻野医院を開業し、
近代日本初の公許女医となっています。
女医といえば楠本イネがいますが、
彼女は医術開業試験制度前の女医で、
吟子は制度後の初の女医。
イネは女性受験解禁時は既に57歳。
受験は諦めて産婆となっています。
※墓の位置1-5-23


中濱萬次郎之墓」。
ジョン万次郎の墓。
土佐の中ノ浜村の漁師の子として生まれ、
乗り込んた鯵鯖漁に出航する漁船が遭難。
米国船ジョン・ハウランド号に救助され、
捕鯨船員となって米国に向かいます。
米国で船長の養子となり、
英語、数学、測量、航海・造船等を学び、
捕鯨船員として暮らした後、
日本へ帰る事を決意して資金を貯め、
ハワイ上海経由で琉球に到着。
薩摩藩長崎奉行所で取り調べられた後に、
故郷の土佐に帰されました。
土佐藩は万次郎を士分に取り立てて優遇し、
藩校「教授館」の教授に任命。
嘉永6年に幕府の直参旗本に取り立てられ、
軍艦教授所教授に任命。
造船指揮、測量術、航海術の指導に当たり、
万延元年には遣米使節団として渡米し、
使節の通訳として活躍しています。
維新後は開成学校の英語教授に就任。
明治31年に死去しました。
※墓の位置1-15-19

見つけられた墓所を紹介しましたが、
まだまだ幕末の人物の墓がある事でしょう。
今回初めて東京の霊園を訪問しましたが、
やはり時間を掛けないと網羅は難しいかな?
青山霊園谷中霊園にも行ってみたいです。

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