生野代官所は天領生野にあった代官所で、
但馬国、播磨国、美作国の天領支配の他、
生野銀山の管理を行っていました。
生野銀山は大同2年(807)の開坑とされ、
天文11年(1542)に守護大名山名祐豊により、
本格的な採掘が始められたという。
後に織田信長、豊臣秀吉ら時の権力者は、
この地を直轄地として奉行を置き、
徳川幕府となった後も生野奉行が置かれ、
これを管理しました。
生野奉行は11代続きましたが、
享保元年(1716)に産出量が減少した為、
組織変更で代官に格下げされます。
代官変更後は28代続いており、
主に大身旗本がこれを務めましたが、
維新後に廃止されて生野県庁となりました。
「生野義擧址」碑。
生野代官所跡に建つ生野義挙の記念碑。
文久3年10月。
平野国臣や河上弥一らは天誅組の変に呼応し、
澤宣嘉を擁して生野で挙兵しました。
同月12日未明に彼らは生野代官所を占拠。
ここを本陣としていますが、
幕府側の挙兵への対応は素早く、
出石藩や姫路藩は翌日に出兵した為、
河上ら強硬派13名は妙見山に出陣。
しかし主将の澤は13日夜に脱出し、
平野らは兵を解散して逃走しました。
挙兵の際に代官川上猪太郎は出張中で、
元締武井正三郎が代官所を明け渡し、
無血で占領が行われたとされ、
その後の解散で戦場にもならなかった為、
生野の変後も代官所の機能を果たしています。
「生野代官所地図(案内板より)」。
生野義擧址碑は生野小学校南東隅にある為、
小学校の敷地が代官所跡かと思いきや、
義擧址碑は代官所敷地の北西隅で、
代官所はここから南東側に広がっていた模様。
「内堀跡」。
小学校南側の観光駐車場に残る内堀跡。
二本の石列が内堀の石積みの再現で、
この間が内堀であったとのこと。
「生野代官所跡(生野平城跡)」。
口銀谷交差点に代官所跡碑があります。
生野の変の翌年4月に代官川上猪太郎は、
桑折代官所に移動させられており、
生野代官には横田新之丞が着任。
横田は慶応元年に自分の息子2人を、
池田草庵主宰の青谿書院に入塾させており、
慶応3年3月に草庵を生野に呼び寄せ、
10日間生野代官所で講義させています。
この池田草庵のかつての門下には、
生野の変に参加した原六郎(進藤俊三郎)や、
北垣晋太郎もいました。
■関連記事■
・兵庫県朝来市 延応寺
生野義挙士らが始めに本陣とした寺院。
・島根県大田市 大森代官所陣屋跡
同じく銀山を管理した天領代官所跡。
・福島県伊達郡 桑折代官所陣屋跡
同じく銀山を管理した天領代官所跡。
・奈良県五條市 五條代官所跡
天誅組の変で襲われた天領代官所跡。