かつて世界の銀の1/3を産出した日本。
その最大の銀山が石見銀山(大森銀山)で、
当時の世界最大規模の銀山で、
平成19年にユネスコ世界遺産に登録され、
観光客で賑わいをみせています。
この銀山をめぐり大内家、小笠原家、
尼子家、そして毛利が互いに奪い合い、
豊臣家、徳川家も干渉しました。
江戸時代の石見銀山は徳川家に接収され、
幕府直轄領(天領)として支配されます。
そして幕府の許で銀山開発が進みましたが、
次第に銀は取り尽くされて産出量は減少。
それでも深くまで掘り進めるなどして、
銀を産出し続けました。
未だ高速道路が繋がってはおらず、
交通の便はあまり良くないのですが、
世界遺産だけあって観光客もある程度多い。
とはいえ外国人観光客を見かけません。
ここまで来るにはハードルが高いのかな?
車を世界遺産センターの駐車場に置き、
シャトルバスで大森代官所跡へ。
バスは15分間隔でした。
「西南之役戦死者紀念碑」。
バスを降りて目を引くのはこの大きな石碑。
明治20年に建立されたこの碑は、
島根県知事籠手田安定が建立したもの。
籠手田は旧平戸藩士で心形刀流の免許皆伝。
幕末期には探索方として京都に在住し、
戸田一心斎に直心影流も習っています。
維新後は滋賀県令、元老院議官などを歴任。
剣豪でもある山岡鉄舟の高弟である他、
道場破りが趣味だった変わり者で、
警視庁撃剣世話掛33名を連破したという。
警視庁は当時の剣豪達が揃っていた筈。
流石は一刀流宗家の証[朱引太刀]を、
鉄舟から授けられただけありますね。
碑には官軍戦死者15名が刻まれています。
この碑の設置してある場所は、
向陣屋と呼ばれる代官所施設があった場所。
「大森代官所長屋門」。
石碑のあった場所から橋を渡った先に、
大森代官所陣屋の長屋門があります。
天領であった大森には代官所が置かれ、
銀山や担当する幕府領を支配しました。
「石見銀山資料館」。
残念ながら代官所の建屋は現存しておらず、
明治35年に建てられた旧邇摩郡役所が、
現在の石見銀山資料館となっており、
銀山に伝来する文化財や美術品、
鉱物標本などが展示されています。
「城上神社」。
祭神は大国主命。
大黒様として親しまれる国土開拓の神様。
元々は馬路の高山に鎮座していたもので、
航海安全と海防の神として信仰され、
大内家が石見銀山を手に入れると、
その守護神として大森の香語山に遷座。
後に毛利家が銀山を手に入れた際に、
現在地に移されました。
徳川家の支配でも庇護を受けており、
一時大火で焼失しますが、
後に再建されて現在に至っています。
「城上神社 拝殿」。
江戸初期の再建時のまま現存する拝殿は、
天井の[鳴き龍]が有名です。
鏡天井に描かれた極彩色の龍は、
絵の真下の丸の中に座って手をたたくと、
龍が鳴いているかのような音がするという。
叩いてみると響いているような音がしました。
「中間長屋」。
代官所に勤務する中間達の住居だった場所。
城上神社近くの橋を渡るとあります。
城上神社から南へ進み、
代官所を過ぎてT字路を右折して勝源寺へ。
「勝源寺」。
勝源寺は奉行や代官の菩提寺。
大久保長安、竹村道清によって創建され、
境内には歴代奉行の墓があります。
「熊谷家三代の碑」。
石見銀山領の有力商家である熊谷家の墓碑。
中央の三佐衛門信英、
右の三佐衛門信孚は幕末の人物。
代官所の御用達を務めた他、
年貢銀を検査する掛屋を経営しています。
「勝源寺本堂」。
本堂は幕末期に再建されたもの。
「東照宮」。
本堂の背後に小さく見えるのが東照宮。
12代将軍までの歴代将軍の位牌や、
徳川家康並びに徳川十六将図、
三つ葉葵入り茶碗が奉納されていたという。
それらは本堂に移されているとのこと。
石州戦争の際に天領であったこの地は、
長州勢の侵攻が不可避な状態となり、
最後の大森代官であった鍋田成憲は、
役人らと倉敷に脱出して幕府支配は終焉。
権力が空白化して領内で一揆が勃発し、
長州勢は南園隊一小隊、四小隊を派遣し、
大村益次郎も大森で民政に着手しました。
民政方として派遣された国広勝馬は、
発生した一揆の鎮静化に奔走し、
猛り狂う一揆勢600余名の中に、
一人で入って鎮めたという逸話もあります。
以後、明治2年に大森県が設置されるまで、
長州藩が石見銀山領を支配しました。
■関連記事■
・島根県大田市 石見銀山
世界遺産石見銀山。
・福島県伊達郡桑折町 桑折代官所陣屋跡
天領代官所と半田銀山の遺構。
・島根県鹿足郡津和野町 旧堀氏庭園
鉱山経営で財を成した堀家の旧邸宅。