奇兵隊顕彰墓地にある赤禰武人の墓碑。
赤禰は奇兵隊の3代目の総督でしたが、
高杉晋作の功山寺挙兵に反対し、
これが成功した為に立場を失って出奔。
上方で捕らえられてしまいます。
赤禰は長州藩との仲立ち提案した為、
許されて永井尚志らと広島まで随行。
そこから長州へ侵入していますが、
既に幕府との交戦を覚悟する藩内では、
赤禰の言葉を聞く者はおらず、
裏切者の烙印を押されてしまい、
潜伏先の柱島で捕らえられて、
山口で斬首されました。
「第三代奇兵隊総督赤禰武人之墓」。
奇兵隊3代総督赤禰武人の墓。
赤禰は柱島の島医師松崎三宅の次男に生まれ、
遠崎妙円寺の海防僧月性に学びました。
この月性の紹介で浦家の郷校克己堂に学び、
短期間ながら松下村塾にも通っています。
浦家の家老赤禰雅平の養子となり、
遊学して梅田雲浜に師事。
安政の大獄の際には捕縛されていますが、
疑いが晴れて釈放されています。
御楯組に加盟して英国公使館焼討に参加。
晋作が奇兵隊を設立するとこれに加わり、
下関戦争の後に3代総督に就任しました。
しかし俗論派の台頭で藩内が不穏となり、
奇兵隊等の諸隊に解散令が出されると、
赤禰は藩政府と交渉して隊の存続を模索。
隊内で恭順を説きますが受け入れられず、
幹部らは既に挙兵した晋作に同調し、
遂には戦う事に決します。
赤禰はこの状況に下関の伊藤俊輔を訪ね、
そこで晋作を罵倒しますが、
伊藤は赤禰と別れた後に遊撃隊にこれを伝え、
赤禰は狙われる事となって出奔。
後に上方で幕府に捕らえられてしまいます。
その後は上記のように裏切者とされ、
捕まって殺されてしまいますが、
維新後に赤禰は無実であったと、
贈位を求める復権運動が起こります。
しかし山縣有朋ら諸隊出身者がこれに反対。
長らく名誉は回復されませんでした。
後に昭和28年に有志の努力によって、
山口に赤禰の顕彰碑が建立されており、
更に平成7年にこの墓碑が建立され、
幾ばくかの復権は果たされています。
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