高杉晋作及び福田侠平の墓の一段低い位置に、
東行庵初代庵主谷梅処の墓があります。
「雪庵梅処尼首座」。
東行庵初代庵主谷梅処の無縫塔。
出自不明ながら芸者此の糸として裏町で働き、
晋作による見受け後はうのと呼ばれました。
下関を拠点として活動する晋作は、
故郷の萩に妻雅子を残していた為、
その妾として晋作に付き従っています。
四国亡命にも同行しており、
労咳を患った高杉の晩年も、
野村望東尼と共に看病を行いました。
後に萩から妻の雅子がやって来た際は、
望東尼の指示で身を引いており、
その死後は剃髪して墓守となります。
嫌がるうのの髪を無理やり切り、
晋作の墓守をさせた説がありますが、
これは眉唾で状況的にあり得ません。
明治2年には山縣有朋が住居無憐庵を与え、
晋作の興した谷家を相続。
その後も墓守を続けていましたが、
次第に生活が苦しくなった為に、
明治8年に上京して井上馨にこれを訴え、
井上も同志を募って梅処を支え、
月々の手当が送られるようになります。
梅処はその後も時々東京を訪れ、
高杉家に宿泊するなど雅子らと交流。
明治17年には東行庵が新しく建てられ、
近隣に三味線や踊りを教えたという。
井上は梅処亡き後の東行庵を心配し、
養女を迎えさせて跡取りとさせ、
東行庵は二代庵主谷梅仙に受け継がれます。
晩年は晋作の顕彰碑を待ちわびますが、
序幕を待たずに明治42年に死去。
はじめ常関寺に葬られていましたが、
七回忌にここに改葬されました。
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