秋月宿は秋月藩の城下にある宿場。
街道の名を冠する地ではありますが、
秋月街道の終点ではありません。
朝倉市秋月周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが秋月宿跡。
秋月は秋月藩の城下町として繁栄し、
現在も街路構成、屋敷地の地割、
水路網等の構造が保持されており、
藩政時代の武家屋敷も残っていますが、
今回は宿場である野鳥川北側を歩きます。
西側より散策。
「目鏡橋」。
野鳥川に架かる石造アーチ橋。
元々ここには木造の橋が架かっていましたが、
洪水によって度々流失していました。
秋月藩8代黒田長舒は長崎警備に赴いた際、
中島川に架かる眼鏡橋を見て、
これと同様の橋が架ける事を考え、
家老宮部織部に命じて架橋工事を開始。
しかしこの石橋は完成直前に崩壊してしまい、
そのショックで長舒は死期を早めたという。
これにめげずに工事は再開され、
開始から10年の歳月を掛けて石橋は完成。
長崎の石工が施工した事から、
始め長崎橋と命名されましたが、
後に目鏡橋と呼ばれるようになっています。
昭和に入ると自動車を通らす為に、
コンクリート舗装がされていますが、
後に保存する為に迂回路が造られ、
現在は復元工事が行われて当時の姿に戻り、
観光スポットのひとつとなりました。
「秋月宿跡」。
街道沿いの家々は昔の面影を良く残します。
秋月は藩政時代に栄えた町ですが、
明治以降は鉄道も通らなかった為か、
※城下手前までは来ていたようです。
発展せずに時が止まってしまいました。
現在は重伝建に指定されて観光名所となり、
江戸時代の雰囲気を味わえる町として、
多くの観光客が訪れるようです。
城下町は城跡や武家屋敷にスポットが当たり、
宿場跡としては推されない事が多い。
秋月宿も宿場としての情報はあまりなく、
本陣や脇本陣、問屋場等、
町並みが残る割に情報がありません。
「札の辻」。
高札場が置かれていた四ッ辻で、
最も栄えていた場所。
南に行けば武家町となっており、
北に行けば古心寺や大涼寺があります。
更に真っすぐ進む。
「枡形」。
札の辻から少し行くと道は蛇行。
ここに枡形があったようですが、
車道の整備で道が変更されました。
この辺りで町人町は終わりとなっており、
以降は武家屋敷が並んでいたようです。
明治9年10月27日。
旧秋月藩士族400名は秋月党を結成し、
秋月の西福寺で挙兵します。
彼らは旧豊津藩士族との共闘を謀り、
秋月を出て豊津へ向かいますが、
乃木希典率いる小倉鎮台に鎮圧されて解散。
その一部の抗戦派が秋月に戻り、
秋月小学校の討伐本部を襲撃しました。
その際に7棟が焼かれたようですが、
町全体に燃え広がる事が無かった為、
現在の町並みが残ったようです。
■秋月街道の宿場町
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