大隈宿は秋月街道の宿場町で、
小倉藩領との国境付近に位置しました。
江戸時代初期の福岡藩では、
国境付近の益富城を後藤又兵衛基次や、
母里太兵衛友信等の豪傑に守らせており、
その警戒具合が伺えます。
大隈宿はその益富城の城下町でしたが、
益富城の廃城に伴い宿場町と変化し、
交通の要所となりました。
嘉麻市大隈町周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが大隈宿跡。
「西構口跡」。
嘉麻警察署のある大隈交差点辺りに、
西構口があったようですが遺構は皆無。
「大隈宿跡」。
当時の町家は改装されてはいますが、
ある程度残っています。
「寒北斗酒造」。
享保14年(1729)創業の元玉の井酒造。
現在は寒北斗酒造と改称していますが、
当主であった矢野家は本陣を務め、
現在も酒造業を続けている老舗です。
寒北斗酒造のある上町交差点を左折。
ここからは道幅も狭くなり、
当時の面影を色濃く残しています。
街道沿いの麟翁寺へ。
「山門(元益富城搦手門)」。
山門は益富城の搦手門を移築したもの。
この寺に母里太兵衛友信の墓があります。
「本堂」。
麟翁寺は始め永忠寺と称し、
益富城主後藤又兵衛の母を弔う為に創建。
後に又兵衛が黒田家から出奔した為、
新たに城主となった母里太兵衛が、
自らの菩提寺と定めて庇護しました。
太兵衛は60歳で死去しており、
永忠寺に埋葬されていますが、
その際に麟翁寺と改称されています。
「母里但馬守友信之墓(左)」、
「母里友晴之墓(中央)」、
「花巖宗栄禅定門 尊霊(右)」。
左から母里太兵衛友信、子の母里友晴、
孫の母里友清の墓。
太兵衛友信は黒田二十四騎のひとりで、
黒田家の戦では常に先鋒を務めて活躍し、
豪傑として知られていましたが、
一番有名な話は黒田節の逸話です。
福島正則の元へ使わされた太兵衛は、
正則の屋敷で酒を勧められますが、
使者として参った手前これを固辞。
これに正則はしつこく酒を勧め、
更に黒田武士は酒に弱いと貶めた為、
太兵衛は大盃の酒を一気に飲み干し、
褒美として名槍日本号を所望。
正則は仕方なく日本号を与え、
太兵衛は天下の名槍を呑取りました。
この逸話が広く知られるようになり、
民謡黒田節として歌われています。
大隈宿は太兵衛が城下町として整備し、
その原形が出来上がったという。
やがて城下町から宿場町へ変化しますが、
小倉藩との境界にあたる為、
防衛面でも重要な宿場町だったようです。
■秋月街道の宿場町
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