福岡県朝倉市 長生寺

長生寺は慶長5年(1600)創建の曹洞宗寺院。
豪商興膳善入秋月に移り住み、
玖天全良和尚に寄進して開山させたという。


山門」。
石段の上には良い感じに寂れた山門
扁額には医王山とありますが、
かつて薬師仏を祀っていた事に由来します。


本堂」。
本堂はそれほど古いものではない模様。
開山の興膳善入という人物は大変長寿で、
寺号はその長命にあやかったもの。
最後は生きたまま124歳で入棺したとされ、
その墓も現存しているようですが、
訪問時はどこにあるかわかりませんでした。


緒方家之墓(中央)」、
種痘創始者 贈正五位緒方春朔(右)」。
秋月藩医緒方春朔の墓。
久留米藩士小田村甚吾の次男に生まれ、
同藩医緒方元斉の養子となります。
長崎に遊学して蘭医吉雄耕牛に学び、
後に久留米を離れで秋月に移住。
上秋月村の大庄屋宅の離れで開業し、
秋月藩に召し抱えられて藩医となりました。
早くから種痘に関心を持って人痘法を研究。
これはジェンナー牛痘法よりも6年早く、
寛政元~2年(1789-1790)の天然痘流行では、
天野甚左衛門の子供二人に初の種痘を実施。
接種から2日後に天然痘の症状を発症し、
10日で回復したという。
その後に医学書種痘必順弁を著して、
種痘を広めるため尽力しており、
医聖と呼ばれるまでになっています。

秋月藩筆頭家老宮崎家の墓所が、
本堂北側の奥まった場所にありました。
※納骨堂?の裏手を廻るとあります。

宮崎家墓所」。
秋月藩筆頭家老宮崎家の墓所。
立藩時から筆頭家老を務めた家でしたが、
目鏡橋の工事を担当した宮崎織部舒安は、
藩の財政難に対して家臣の上米と、
富裕商人からの献金や借入で対処。
この上米の実施に家臣らが不満を持ち、
藩士間小四郎らが福岡藩に訴えた結果、
宮部家と財用方家老渡辺帯刀が失脚となり、
家禄没収及び流罪となりました。
※織部崩れ。
この宮崎家を追放した間も、
後に藩政を専横するに至っており、
10代藩主黒田長元によって、
玄界島への流刑に処されています。

秋月の乱で戦死した宮崎三兄弟の宮崎家は、
筆頭家老宮崎家の分家筋。
当主は中老鉄砲頭馬廻頭等の要職を務め、
200石を知行していたという。
山門前の石段を下った北側に、
その分家宮崎家の墓所がありました。

宮崎車之助墓(右)」、
宮崎哲之助墓(中央)」、
今村百八郎墓(左)」。
宮崎車之助ら兄弟は秋月藩の干城隊士で、
開明派家老臼井亘理の暗殺にも関与。
車之助は挙兵に慎重な立場だったという。
今村百八郎は車之助の次弟で、
元藩主側室今村正子の養子となっており、
急進派の首領として西福寺で挙兵しました。
慎重派だった車之助も覚悟を決め、
目鏡橋辺りでこれに合流。
豊津士族との共闘の為に豊津を目指しますが、
小倉鎮台の攻撃を受けて敗北し、
車之助、末弟宮崎哲之助ら8名が自刃。
百八郎は同志26名と共に秋月に戻り、
秋月党討伐本部を襲撃しています。
その後は再起を図ろうとするも捕縛され、
裁判の後に斬首されました。

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