秋田県秋田市 久保田宿跡

久保田宿羽州街道の宿場町で、
久保田城下外町にありました。


旭川の西側(外町)周辺。
緑の線が羽州街道でピンク線が羽州浜街道
青でぼかした辺りが宿場のあった場所。

南側から散策。

刈穂橋」。
旭川に架かる刈穂橋を渡ると町人街の外町。
羽州街道は直ぐに北上するのですが、
直進すると酒田へ至る浜街道となります。
この東西の通りは馬口労町と呼ばれており、
馬宿が置かれて人馬を提供していたとされ、
更には馬市も開催されていたとのこと。
街道は郵便局のある大町筋を右折しますが、
馬口労町を少し直進してみます。


旧松倉家住宅」。
県内屈指の大規模な町家。
主屋は明治期の再建のようですが、
米蔵文庫蔵は幕末期のもの。
数少ない県内の伝統的な町家です。
上記のように街道筋は大町筋ですが、
この旧松倉家住宅から右折する茶町筋も、
大町筋と平行して北上しており、
羽州街道として利用されていたとのこと。
※今回は茶町筋は通らず大町を通りました。

更に直進。

旧 馬市のせり場跡」。
馬市の競り場のあった場所。
結構よく見かけるのですが、
を同時に使用するのは、
日本語的におかしい気がします。
ここには馬の売買や斡旋の業者が集まり、
数百頭の馬がいたという。

郵便局のあるT字路まで戻って北上。

大町筋(鍛冶町)」。
鍛冶職人が多く住んでいた町で、
御用品や農具、その他金物を製作し、
藩の厚い保護を受けていたようです。
これは久保田城の築城に奉仕した功で、
鍛冶家督の特権が与えられていた為。


新政酒造」。
嘉永5年に初代佐藤卯兵衛が創業。
うへえの酒と地元で親しまれ、
後に明治政府が掲げた新政厚徳を酒銘とし、
更に4代佐藤佐吉新政と短くしています。
全国的にも知られる高級日本酒の蔵元。


感恩講発祥之地」。
新政酒造の北側にある公園にある記念碑で、
那波三郎右衛門宅のあった場所。
9代当主那波三郎右衛門祐生は、
藩に貧民救済資金の調達を依頼されます。
そこで献金を募って農地を買い入れ、
その収入半分を貧民救済に充て、
残りは貯蓄して飢餓に備える計画を立て、
自ら4百両の献金を行って同志を募り、
2千両を集めて救済事業感恩講を開始。
天保の飢饉では施米を行って飢民を救済し、
以降もこれが秋田で発展したようで、
明治期までに18ヶ所の感恩講が建てられ、
民間非営利組織(NPO)の魁となっています。
現在も市内に感恩講児童保育院として残り、
代々那波家が理事長を務めているとのこと。

大町5丁目交差点まで進み、
街道を逸れて東側の5丁目橋へ。
その橋の東詰に川反観音があります。

川反観音」。
久保田藩は新政府への恭順を決め、
慶応4年(明治元年)7月4日に、
仙台藩使節志茂又左衛門以下11名を殺害。
そのうち6名の首をここに晒しました。
この観音は殺害された仙台藩士の供養の為、
平成12年の同日に建立されたもの。

街道筋に戻る前にひとつ東側の筋へ。

川反町」。
米蔵が並んでいた通りだったようで、
明治19年に俵屋火事で延焼した後、
花街になったようで、
現在は歓楽街となっている模様。

街道筋に戻る。

大町五丁目」。
上記した新政のゲートが鮮やかな通り。
こちらも歓楽街となっています。

更に進む。

秋田市立赤れんが郷土館」。
旧秋田銀行本店として明46年に完成。
昭和56年に秋田市に寄贈されて、
郷土に関する企画展を随時開催しています。
国指定重要文化財


明治天皇行在所跡」碑。
秋田県農協電算センター敷地にある碑で、
瀬川徳助邸のあった場所。
明治天皇は明治14年6月16日より、
3日間滞在しています。

竿燈大通りを越えると日銀秋田支店
更にこれを越えて北上します。

旧金子家住宅」。
江戸時代後期に質屋や古着商を開き、
明治初期より呉服商を営んだ金子家の住宅。
昭和57年まで商売していたとのこと。
平成8年に秋田市へ寄贈され、
秋田市の有形文化財となりました。

旧金子家住宅を越えると道は左折。
城下を出て次の土崎湊宿へ至ります。

■羽州街道の宿場町

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