山口県防府市 桑山招魂場

佐波川の河口の開けた平地からなる防府市。
その中心部にぽつんとある独立丘陵が桑山
別名を「三つ山」「桑ノ山」、
雅名を「九華山」といいます。

元治元年8月、太田市之進山田顕義
品川弥二郎らが御盾隊を結成し、
この桑山を本営としました。
後に戦死した隊士を祀る招魂場が造営され、
現在は防府市護国神社となっています。


桑山公園」のお地蔵さん。
桑山には沢山のお地蔵さんがいます。


桑山立木観音菩薩」。
幕末より少し前に活躍した仏師木喰の作で、
一生に一度だけ願いが叶えられるという。
木の細い割れ目の中に彫られていました。


防府市護国神社」。
他の護国神社と同様に後の英霊も合祀。


贈正四位御堀耕助直方之墓」。
社殿の裏手にあります。
御堀耕助(太田市之進)は御楯隊の総督で、
攘夷戦禁門の変下関戦争長州内訌戦
そして幕長戦争を戦った歴戦のツワモノ。
明治4年に三田尻で病死しており、
ここに葬られました。


御楯隊招魂場」碑。
小高い丘に御楯隊の招魂場かあります。
御楯隊は御堀、山田、品川らが結成し、
長州内訌戦では高杉晋作に呼応し、
呑水赤村の戦いなどで活躍。
幕長戦争では芸州口に出陣しており、
幕府軍を迎え撃ちました。


桑山招魂場碑」。
撰文は山田顕義


整武隊墓碑」。
丘の東側に整武隊の墓碑が並びます。
整武隊は幕長戦争の後に、
御楯隊と鴻城隊を合併したものですが、
長州内訌戦の戦死者もいました。
中には玉木文之進の長男玉木彦助の墓碑も。


田中正七郎墓碑」。
ひとつだけ離れた所にある墓石。
田中正七郎がどういう人物か不明。
おそらく晩年まで生きた隊士で、
隊士たちと共に葬られたいとの遺言から、
ここに葬られたのではないでしょうか?
※推測です。建立日を見忘れました。


[御楯隊等墓碑」。
丘の東側には御楯隊等の墓碑があります。
殆どは戊辰戦争時の戦死者ですので、
案内板が逆なんじゃないかな?


長州藩海軍関係墓碑」。
社殿の南側にある長州藩海軍関係の墓碑群。
前列の2つは山田亦介松島剛蔵の墓碑。
後列は下関戦争の戦死者です。


遊撃軍墓碑」。
来島又兵衛が初代総督を勤めた遊撃軍は、
奇兵隊と共に長州藩の主力部隊として、
数々の戦闘に参加しています。
井上聞多の恩人所郁太郎の墓もありました。
所郁太郎は遊撃隊の軍監。


干城隊等墓碑」。
大組士からなる干城隊は正規藩士の部隊。
福原越後の養子福原駒之進が総督を勤め、
頭取には前原一誠が就任しました。

招魂場から麓の大楽寺へ。

大楽寺」。
大楽寺水子供養の寺として有名。
7代藩主毛利重就の分骨地でもあります。


楫取素彦及び楫取美和子の墓。
明治26年に楫取は防府に移住しますが、
貞宮多喜子内親王の養育係になり、
一時的に東京に移り住みますが、
残念ながら内親王はわずか2歳で急死。
2人は防府に戻っています。
素彦は大正元年、
美和子は大正10年に死去。

桑山には野村望東尼の墓もあるのですが、
歩き回りすぎて今回は行きませんでした。
※前回行った時の記事はこちら

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 内訌戦の際に御楯隊が宿営した場所。
山口県山口市 海善寺/玉木彦助墓所
 御楯隊士玉木彦助の墓。
力士隊について
 力士隊は御楯隊に所属していました。

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