栃木県那須塩原市 大山巌墓所

明治14年。
大山巌西郷利通は開墾場を共同経営し、
彼らの出身地の加治屋町の名から、
鍛冶屋開墾と名付けました。
500町歩(500ha)の開墾地は植林や、
小作経営を行っていたようで、
牧牛も行われたとのこと。
両人の働きかけで東北本線が開通し、
彼らの所有地に那須野停車場も開設。
※現在の西那須野駅
順調な経営を進めた明治34年に、
両人は加治屋開墾を分割し、
それぞれ個人経営にすることとなります。
※子孫の代に争いを起こさない為という。
そして大山の経営する大山農場が成立し、
先の大戦後まで大山家が所有。
大山はここに別荘を建設し、
忙しい公務の合間に狩猟等に訪れ、
付近を散歩したり農民らと談笑したり、
田園の閑静を楽しむ事が、
晩年の大きな楽しみだったという。
大山の死後は生前の遺言により、
国葬の後にこの地に埋葬されています。


杉並木」。
大山巌の墓所への参道は非常に長く、
約380m程もあります。
このうちの前半はモミジ並木で、
後半は杉並木となっていますが、
季節的に微妙で時間の制限もある事から、
杉並木のみ歩いて大山巌の墓所へ。


大山家墓所」。
墓所は基本的には非公開ですが、
毎月第2土曜日に一般公開されるとのこと。
※予約が必要。
特定の日時や予約はハードルが高く、
残念ながら門外より参拝となります。
私有地の墓地ですので仕方ないですね。
門外から手を合わせました。

大山巌は明治期の陸軍大将元帥
西郷隆盛の従弟にあたり、
実の弟のように可愛がられたという。
西郷や有馬新七らの影響で尊攘派に属し、
寺田屋騒動に遭遇して謹慎。
薩英戦争の際に謹慎が解かれ、
スイカ売りに化けて奇襲を計画したり、
砲手として戦闘を行っていました。
戊辰戦争では銃隊を率いて各地を転戦し、
大砲の改良にも従事。
明治3年に普仏戦争視察の為に渡仏し、
後にスイスのジュネーブに留学します。
帰国後は陸軍に就き、
西郷下野後も残って士族鎮圧に参加。
西南戦争にも出動しており、
西郷の立て籠もる城山を攻撃しました。
※以後鹿児島に帰らず。
明治18年の第1次伊藤内閣では、
初代陸軍大臣に就任。
以後は黒田内閣第1次山縣内閣
第2次松方内閣と連続でこれを務め、
高島鞆之助を挟み第2次伊藤内閣で再任。
第2次松方内閣まで在任しています。
日清戦争では第2軍司令官を務め、
日露戦争では満州軍総司令官に就任し、
日本の勝利に大きく貢献。
警視総監文部大臣内務大臣も務め、
元老のひとりとして活躍しました。
大正5年、死去。

この墓所には大山の前妻沢子の墓や、
吉井友実の長女。
後妻捨松の墓もあるとのこと。
※元会津藩士山川浩の妹で、
 鹿鳴館の花と謳われた。

いつか内部で参拝したいものです。

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