宮崎県日向市 黒田の家臣

細島港の先にある半島部分に、
古島という名の小さな島が浮かんでおり、
地元では黒田の家臣と呼ばれています。

文久2年にここで3人の遺体が見つかり、
その被害者1人の腹巻には、
 平生心事豈有他 赤心報國唯四字
 黒田家臣、海賀直求

と書かれていたという。
3人共に片方の手に麻縄が結われており、
嬲り殺しにされたと推測されました。


古島」。
僅かに半島から離れた小島。
干潮時には陸続きとなりますが、
訪問時は干潮ではありませんでした。
しかしながらこれで諦めきれず、
海を見るとなんとか渡れそう。
裸足になってズボンの裾をまくり、
意を決して島へ渡ってみました。
・・・が、見た目程浅くはなく、
ズボンは濡れて股下辺りまで浸かり、
ようやく向う岸まで到着。

遺体の第一発見者黒木庄八は、
彼らを憐れんで荼毘に付し、
墓を建立して守り続けたようです。
その後も黒木家は代々これ続け、
現在も続いているとのこと。


海賀直求辞世」碑。
上陸してすぐの場所にある歌碑。
この碑は対岸からも確認できます。
 なつのよの みじかきとこの
 ゆめたにも くにやすかれと
 むすひこそすれ



奥へ進むと碑と3基の墓が見えてきます。

被害者の1人が海賀宮門と判明すると、
後に残り2人も島原藩出身の中村主計
但馬国多気出身の千葉郁太郎と判明。
遺体発見半月前に寺田屋事件が発生し、
薩摩藩の同士討ちが起こりますが、
その際に他藩士らは投降しており、
彼らは後に各藩に引き取られます。
しかし残り5人の引き取り手がなく、
薩摩藩は彼らを鹿児島に護送。
被害者はその5人のうち3名でした。
残る2名も小豆島で遺体として発見され、
田中河内介親子。
護送された5人共に殺されています。


赤心報國之碑」。
山縣有朋の書による碑。


肥前中村主計重義之墓(左)」、
海賀直求之墓(中央)」、
贈正五位千葉郁太郎嘉胤墓(右)」。
薩摩藩士らに殺害された3人の墓。
海賀直求は黒田の家臣ですが、
福岡藩ではなく支藩の秋月藩の藩士で、
尊攘運動し奔走して平野国臣らと交遊し、
この嫌疑で文久元年に幽閉されます。
その翌年に脱藩して上方へ向かい、
寺田屋の会合に参加しました。
中村、千葉の2人も脱藩浪士ですが、
詳しい経歴は不明です。

近年になって鹿児島市尚古集成館で、
島津久光の書簡が発見されており、
藩主島津茂久宛てのその書簡には、
浪人同列、船より差し下し、
 船中にて如何様にも取り計らうべく
 申し付け遣わし候

という一節がありました。
勤皇僧月照の件でもそうですが、
薩摩藩が自藩に護送するという事は、
則ち死を意味するという事。
勿論これは後世の我々だからわかる事で、
彼らには知り得ない情報だったでしょう。

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