城安寺は安来市広瀬町にある臨済宗寺院。
鎌倉末期に古愚和尚が開いたようですが、
戦国時代の兵火によって衰退しています。
慶長5年(1600)に領主となった堀尾吉晴は、
春龍和尚を招いて城安寺を再興させ、
堀尾家の菩提寺としていますが、
その後の慶長16年(1611)に、
3代堀尾吉晴が松江城に居城を移すと、
城安寺も一時松江に移ったという。
その後に堀尾家が断絶した為に衰退し、
松江藩には越前松平家が入封。
寛文6年(1666)に松平近栄が分知され、
3万石で広瀬藩を立藩すると、
近栄は元覚和尚を招いて城安寺を再興し、
広瀬藩松平家の菩提寺としました。
「山門」。
山門は9代藩主松平直諒の寄進で、
参道石段の先に聳える姿が良い雰囲気。
扁額も直諒の筆によるものとのこと。
「本堂」。
本堂は明治時代の再建とのこと。
本尊は聖観音菩薩立像で、
両脇には木造広目天立像と、
多聞天立像が安置されており、
国指定の重文となっています。
「伝 尼子義勝墓」。
尼子義勝の墓とされる宝篋印塔。
本堂前庭の南隅にあります。
義勝は尼子家の一門家臣で、
尼子久幸とも称していました。
当主尼子詮久が毛利家討伐を決めた際、
無謀と諫めた為に臆病野州と謗られますが、
尼子勢は予想通り撃退されてしまい、
義勝は[臆病野州の最期を見よ!]と、
手勢を率いて突撃して戦死しました。
城安寺墓地には9代直諒の墓があります。
直諒は唯一領内で死去した為、
菩提寺の城安寺に葬られました。
「城安寺墓地」。
現在の常安寺より見える小高い丘が、
城安寺の墓地となっていますが、
江戸期はここに本堂等があったようです。
地元ではお墓山と呼ばれているとのこと。
「成徳院殿前従五位下佐州刺史
賢道文哲大居士 尊儀」。
広瀬藩9代藩主松平直諒の墓。
8代松平直寛の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
歴代藩主は江戸に定府していましたが、
藩主就任後に許可を得て広瀬に入り、
藩政改革に取り組んでおり、
特産品の糸、紙、鋳物、陶器、織物等、
産業の奨励を行いました。
また俳諧や絵画、書道をたしなみ、
領内でも文化政策を行う等、
善政に尽くしたとされていますが、
文久元年に領内で病死。
享年45歳で11年の治世でした。
直諒には子がなく、
弟の松平直巳が跡を継いでいますが、
直諒に似ず有能ではなかったようです。
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