下関市細江町 廣江殿峯墓所

幕末より少し前の文化文政期
来関した文化人の多くと交わり、
自宅を文化交流拠点とした人物がいました。
彼の名は廣江殿峯
特に文人頼山陽、南画家田能村竹田とは、
深く交流を続けたとされています。


廣江殿峯墓碑」標柱。
下関の歓楽街豊前田通りの東端辺りより、
北側の細道を入ると殿峯の墓所があります。


廣江殿峯宅址」。
細道は坂道となっており、
更に進むと道は階段となっており、
その途中に殿峯宅跡の碑があります。
殿峯はそれ程裕福ではなかったようですが、
その稼業は醤油醸造業でしたので、
ある程度の広さが必要な筈。
現在は地形も変わっているのでしょう。

更に進むと墓地となっており、
その入口近くに殿峯らの墓があります。

釋教西信士 峻貞信女(右)」、
不染院〇泥妙蓮大姉
 儇醒院明〇妙寓居士
 釋尼〇屋貞壽信女
(右2)」、
秋水廣江君墓(左2)」、
芳徳院秀道妙震大姉(左)」。
右から殿峯の両親、殿峯、
四男(三男?)廣江秋水廣江吉郎の妻の墓。
殿峯は通称伊豫屋吉右衛門と称し、
質素で粗末な布の前垂れを付け、
従業員に交じって汗を流して、
朝から晩まで辛苦して働いていたという。
仕事が終わると客の文化人らと談笑し、
自らも画や文に長じていたとされ、
親孝行で長府藩に表彰もされたようで、
人格者であったとされています。

頼山陽は文政元年(1818)に西遊に旅立ち、
長府の旧友小田南陔宅に3日宿泊した後、
殿峯を訪ねて40日滞在。
九州の旅を終えた帰路も殿峯を訪ね、
多くの詩を残しています。
殿峯の子秋水は山陽に師事しており、
滞在時の歓待に努めたようで、
殿峯死後は山陽に追悼碑の碑文を依頼。
その後も交遊を続けたという。
秋水の隣の吉郎の妻はよくわかりません。

殿峯の追悼碑は墓地入口にありましたが、
石垣補修の際に工事業者が一時撤去。
再建する際に反対意見があった為、
違う場所での建立を試みたが適地がなく、
破棄されたとのこと。
全国的にも知られる頼山陽の手掛けた碑を、
適地がないからと破棄するとは・・・
撤去は市の教育委員会も知らなかったとか。

■関連記事■
下関市新地町 小田海僊宅址
 南画家小田海僊の宅跡。
下関市長府 狩野芳崖宅跡
 近代日本画家加納芳崖の宅跡。