龍華山等覚寺は宇和島藩伊達家の菩提寺で、
初代から4代藩主および、
6代以降の偶数代の藩主の墓所があります。
「等覚寺山門」。
等覚寺は初代藩主伊達秀宗が、
母の菩提を弔うために建立した寺で、
建立当時は龍泉寺という寺名でした。
後に秀宗が死去して龍泉寺に葬られたため、
戒名の等覚寺殿拾遺義山常信大居士より、
寺名を等覚寺と改められています。
「本堂」。
家臣や領民が寺の名を呼ぶ際、
寺名では元藩主を呼び捨てになる。
そこで藩は寺名の等覚寺とは呼ばせず、
山号の龍華山で呼ばるていたようです。
等覚寺の伊達家墓所は、
本堂左側の左側にある西墓所と、
右後ろ側にある東墓所に分かれています。
「西墓所」。
初代藩主伊達秀宗と、
4代藩主伊達村年の墓があります。
「等覚寺殿前遠州太守
拾遺義山常信大居士」。
初代藩主伊達秀宗の墓。
秀宗は政宗の庶長子として生まれ、
豊臣秀頼の小姓となっていましたが、
関ヶ原の戦いで徳川家康の天下となると、
人質として江戸に送られました。
しかし政宗の正室愛姫に男子が生まれ、
※後の仙台藩2代伊達忠宗。
事実上の廃嫡となっていますが、
政宗と共に大坂の陣で活躍した事から、
宇和島10万石を与えられ別家を創設。
家臣団は仙台藩より派遣されましたが、
これが宇和島藩の独自性を阻害しており、
次第に秀宗は疎ましく思うようになって、
宗家と対立するようになります。
挙句に家臣間の対立で殺害事件まで発生。
※和霊騒動。
これを宗家に報告しなかった事により、
政宗は激怒して幕府に領地返上を求め、
秀宗も勘当としました。
争いは老中土井利勝の取り成しにより、
政宗、秀宗親子が直接面会する事となり、
秀宗は長年の恨みを政宗にぶつけると、
政宗もその気持ちを理解して勘当を解き、
その後の親子関係は良好となります。
42年の治世の後に隠居して翌年に死去。
宮崎八郎兵衛、高島太郎衛門、神尾勘解由、
渡辺藤左衛門の4名が殉死しました。
2~3代は東墓地にある為、
代は前後しますが4代村年の墓から。
「泰雲院殿前遠州太守宗山紹澤大居士」。
4代藩主伊達村年の墓。
3代伊達宗贇の三男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続します。
治世では風水害、虫害等の凶作が続き、
藩の財政は窮乏化。
この為に財政再建を図るべく、
藩政改革を推進していますが、
その半ばの参勤交代途中で急死しました。
西墓地を出て東墓地へ。
「東墓所」。
2代藩主伊達宗利、3代藩主伊達宗贇、
6代藩主伊達村寿、
そして幕末期の8代伊達宗城、
10代当主伊達宗陳の墓があります。
「天梁院殿前遠州太守賢山紹徳大居士」。
2代藩主伊達宗利の墓。
初代秀宗の三男として生まれ、
父の隠居により家督を相続。
検地や役人の諸制度を確立させ、
紙の専売も実施して藩政の基礎を固め、
城の改修や御殿造営も行っています。
36年の治世の後に隠居し、
その15年後に死去しました。
「大玄院殿前遠州太守拾遣
天山紹光大居士」。
3代藩主伊達宗贇の墓。
仙台藩3代伊達綱宗の三男に生まれ、
仙台藩家老石川宗弘の養子となりますが、
後に2代宗利の婿養子となりました。
養父の隠居により家督を相続すると、
実高7万石を10万石と過大に申告し、
この為に負担が増えて財政は困窮。
新田開発も行っていますが、
補うには至らずに借金が増えて、
家臣団の大減封まで行っています。
14年の治世の後に死去。
「南昌院殿前遠州太守
羽林壽山紹慎大居士(右)」、
「鑑照院殿圓壹妙玞大姉(左)」。
6代藩主伊達村寿と正室順姫の墓。
5代伊達村候の四男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
治世では家臣間の争いが勃発し、
刃傷沙汰にまで発展しています。
病気の為に嫡嗣伊達宗紀に実権を譲り、
後に隠居して家督を譲りました。
「靖国院殿藍山維城大居士(右)」、
「春光院殿靖臺慈芳大姉(左)」。
8代藩主伊達宗城と正室猶子の墓。
宗城は大身旗本山口直勝の次男に生まれ、
7代宗紀の養子となって家督を相続。
宗紀の藩政改革を発展させ、
高野長英や村田蔵六を宇和島に招き、
藩の近代化を進めました。
英国外交官アーネスト・サトウは、
「四国の小領地にはもったいない程有能」、
「大名階級の中でも一番の知恵者」と評し、
宗城を評価していたようです。
将軍継嗣問題では一橋派に属し、
井伊直弼ら南紀派と対立した為、
安政の大獄で隠居謹慎処分となりますが、
隠居後も実権を握り続けました。
放免後は再び幕政に関与する事となり、
公武合体を推進。
維新後は新政府の議定となりますが、
戊辰戦争が始まると辞任しており、
明治2年に民部卿兼大蔵卿に就任し、
明治4年には欽差全権大臣となり、
清の全権李鴻章と日清修好条規に調印し、
この年に中央政界より引退しています。
明治25年、死去。
正室猶子(益子)は佐賀藩9代鍋島斉直の娘。
佐賀藩10代鍋島閑叟の姉にあたりますが、
福山藩6代阿部正寧からの再婚でした。
前夫の正寧は病弱だったようですが、
弟の阿部正弘に家督を譲って隠居した後、
明治まで生存していましたので、
死別ではなく離縁だったようです。
※死別であれば落飾していたでしょう。
たぶん何らかの事情で佐賀に戻され、
改めて宗城に嫁いだのでしょう。
この経緯はよくわかりません。
「宮中顧問官従二位勲三等
侯爵伊達宗陳墓」。
宇和島伊達家10代当主伊達宗陳の墓。
宇和島藩最後の藩主伊達宗徳の長男で、
宗徳の死去に伴い当主となります。
貴族院侯爵議員に生涯在任し、
宮中顧問官等を務めました。
次回はもうひとつの藩主墓所大隆寺へ。
■関連記事■
・愛媛県宇和島市 宇和島城
宇和島藩伊達家の居城跡。
・愛媛県宇和島市 大隆寺/宇和島伊達家墓所
もうひとつの藩主菩提寺。
・宮城県仙台市 仙台城跡
宗家仙台藩伊達家の居城跡。