村田良庵は緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、
頭角を現して塾頭を勤めた後、
鋳銭司に帰って医者を開業しています。
高野長英を失った宇和島藩では、
高野に代わる蘭学者を求めていましたが、
そこで白羽の矢が立ったのが、
二宮敬作を訪ねに来ていた村田でした。
一流の蘭学者と認められた村田は、
宇和島藩主伊達宗城に推挙され、
兵学、蘭学の講義と翻訳、
樺崎砲台の設計、軍艦製造に携わります。
「大村益次郎住居跡」。
宇和島滞在時の村田良庵(大村益次郎)住居跡。
村田ははじめ宇和島に汚い身なりで現れ、
役人は2人扶持10両の冷遇で雇いましたが、
後に上士格100石の待遇に改められています。
しかし村田の宇和島滞在は2年余り。
その間に長崎にも赴きました。
後に村田は藩主の参勤に同行して江戸へ向かい、
私塾鳩居堂を開いて蘭学を教える傍ら、
幕府の蕃書調所教授方手伝、
講武所の砲術教授を務めました。
周防を領する長州藩は村田が自領出身と知り、
長州藩への村田の移籍を宇和島藩へ嘆願し、
宇和島藩はこれを受け入れて、
村田は長州藩に移籍しています。
結局、村田の宇和島藩在籍は約7年間で、
移籍しても翻訳などの宇和島藩の依頼を、
引き受けるという条件でした。
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