①/②
日置島津家は島津歳久を祖とし、
※宗家15代島津貴久の三男。
日置郡日置郷を領した系譜。
その歴代墓所は大乗寺にありました。
「日置島津家墓所」。
大乗寺は廃仏毀釈で破壊されており、
跡地には墓所のみが残されています。
日置島津家は御一門に次ぐ家格で、
一所持大身分の筆頭でした。
左衛門家とも呼ばれていたようです。
「心岳良空大禪伯」。
日置島津家初代当主島津歳久の墓。
島津貴久の三男で島津四兄弟のひとり。
祖父島津忠良より、
始終の利害を察するの智計並びなし
と評されたとされており、
知略と武芸に秀でた名将であったという。
豊臣秀吉による九州征伐では、
唯一和睦を主張していましたが、
抗戦となって豊臣家に圧倒された際は、
一同が降伏に傾く中で徹底抗戦を主張。
島津家が降伏した後も恭順の意を見せず、
秀吉の駕籠に部下が矢を射かけ、
更に病気と称して挨拶もせず、
反抗的な態度をとっていたようです。
この件は秀吉が不問としますが、
朝鮮出兵でも病気を称して出兵せず、
梅北一揆にも関与した疑いがあった事から、
遂に秀吉は激怒して歳久の首を要求。
兄島津義久の追討を受けるに至り、
家臣に首を斬らせで自害したという。
実際に歳久は風疾(中風)を病んでおり、
手足が思うように動かない状態で、
自ら腹を切る事も出来ませんでした。
歳久の家督は孫の島津常久が相続。
彼の墓はここにはありません。
「慮安忠〇大居士
桃顔妙仙大姉」。
4代当主島津久慶とその室の墓。
3代常久の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
隈之城の地頭を務めた他、
異国方や宗門方に任じられており、
切支丹や一向宗を取り締まっています。
久慶は甥の島津久予を養子としていますが、
久予は養父の死後に久慶が一向宗信徒で、
一向宗の僧侶に藩主を呪詛させたと告白。
これにより久慶は系図から抹消され、
久予は実家の喜入家に戻っています。
当時の日置島津家の領地は、
日置領と東郷領がありましたが、
この一件で日置領は没収されました。
「五代島津忠朝墓」。
5代当主島津忠朝の墓。
初代藩主島津忠恒の十二男。
始め桂家の養子でしたが実家に戻り、
後に日置島津家の家督を継ぎます。
上記の様に久慶は系図から抹消された為、
系図上は3代常久の養子。
大隅国帖佐や薩摩国蒲生の地頭を務め、
16年の当主在任後に死去しました。
「六代島津久竹墓」。
6代当主島津久竹の墓。
地蔵型の墓石。
5代忠朝の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
所領の東郷と日置の知行替を願い、
これが許されて旧領に復帰。
隠居して家督を譲る際に、
分家板鼻家、赤山家、山岡家を創設し、
享保元年(1716)に死去しています。
「七代島津久健墓」。
7代当主島津久健の墓。
6代忠竹の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しています。
15年の当主在任後に死去。
「八代島津久林墓」。
8代藩主島津久林の墓。
7代久健の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
久林の代に大身分の家格が制定され、
日置島津家はその筆頭となっています。
明和4年(1767)、死去。
つづく。
①/②
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