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宮之城島津家は一所持大身分の家柄で、
宗家15代島津隆久の弟島津尚久を祖とし、
尚久の子島津忠長が宮之城を領し、
江戸時代を通じ宮之城を支配した家。
その菩提寺は宗功寺でしたが、
廃仏毀釈により廃寺となっており、
現在は墓所のみが残されています。
「宮之城島津家墓所」。
2代当主忠長から16代当主島津長丸まで、
家族も含めた33基の墓石があります。
その殆どは墓祠付きの巨大なもので、
鹿児島県内の島津家墓所の中でも、
非常に壮大な規模の墓所という。
※初代尚久の墓所は南さつま市日新寺跡。
「祖先世功碑」。
5代当主島津久竹が建立した亀趺碑。
歴代当主の功績が刻まれており、
地元の言い伝えによると、
碑文を全て読めれば台座の亀が、
川内川を泳ぐと云われているとか。
「既成宗功庵主」。
2代当主島津忠長の墓。
初代尚久の嫡男として生まれ、
高原城攻めや耳川の戦い等で戦功を挙げ、
水俣城攻めでは脇大将を務め、
沖田畷の戦いでも活躍しました。
岩屋城攻めでは総大将となり、
高橋紹運を玉砕させていますが、
多くの犠牲者を出して時間も奪われ、
豊臣秀吉の九州上陸を許しています。
島津家が豊臣家に降伏した後は、
人質として伏見に滞在。
島津歳久の首が晒さられた際には、
一条戻橋まで取り返しに行っています。
朝鮮出兵にも参加しており、
僅かな手勢で明の大軍を撃ち破り、
島津義弘の窮地を救いました。
これらの功績で宮之城を拝領し、
関ヶ原の際には国境を警備。
戦後は徳川方との交渉を担当しています。
「鐵心宗崑大居士」。
3代当主島津久元の墓。
2代忠長の次男として生まれ、
新納忠真の婿養子となっていましたが、
兄の死去に伴い実家に帰り家督を相続。
藩主島津忠恒の命により、
正室の新納家の娘と離縁し、
忠恒の妹御下を継室としています。
2代藩主島津光久の理髪役も務め、
島原の乱では光久の供として出陣。
以後も家老として光久を補佐しました。
「〇源道智大居士」。
4代当主島津久通の墓。
3代久元の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
天降川の河川改修を担当しており、
島津世録 八巻の編纂も行っています。
29年の当主在任の後に隠居し、
2年後に死去しました。
「〇〇玄英大居士」。
5代当主島津久竹の墓。
4代久通の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
儒学者林春斎の門人となっており、
上記の祖先世功碑の撰文を師に依頼。
21年の当主在任の後に死去しています。
「天麟宗義大居士」。
6代当主島津久洪の墓。
5代久竹の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
8年の当主在任の後に死去しました。
「活山道〇大居士」。
7代藩主島津久方の墓。
3代藩主島津綱貴の五男として生まれ、
継嗣のいない6代久洪の養子となり、
養父の死後に家督を相続しました。
久方の代に家臣の家格整備が行われ、
宮之城島津家は一所持となっています。
18年の当主在任の後に死去。
つづく。
①/②
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