鹿児島県日置市 光禅寺跡

日置島津家2代当主島津常久の墓が、
光禅寺跡にあるらしいとの事で、
降り続く雨の中を訪問しました。


光禅寺跡」。
日置島津家初代島津歳久の正室悦窓院は、
慶長7年(1602)に瑞岳和尚を開山とし、
光禅寺を創建しました。
現在は御多分に漏れず廃仏希釈廃寺
墓地のみが残っています。

墓地には3代島津常久夫婦、
悦窓院、その他島津家所縁の人や、
殉死した家臣の墓などがあるとのこと。


丁互戦凶招魂塚」。
西南戦争戦没者の招魂塚で、
日置出身の38名を招魂するもの。
光禅寺跡の石段を登った正面にあります。


悦窓永喜大姉」。
島津歳久の正室悦窓院の墓。
児島備中守綱明の娘で、
本田惣左衛門なる者に嫁ぎますが、
戦死して未亡人となっており、
後に島津歳久と再婚したとされます。
二人の子は娘一人であった為、
婿養子に島津忠隣を迎えますが、
後に忠隣は豊臣秀吉との戦いで戦死。
更に夫の歳久も秀吉の逆鱗に触れ、
自害してしまいました。
悦窓院は忠隣の子袈裟菊丸と共に、
宮之城虎居城に籠城。
義兄島津義久領地安堵及び、
袈裟菊丸への家督相続を訴えます。
約1ヶ月の籠城の後、
領地安堵の起請文を勝ち取り開城。
袈裟菊丸は家督相続し、
成人後に日置領を与えられました。
この袈裟菊丸が3代島津常久です。
※日置家では戦死した忠隣を2代とします。
悦窓院は孫の領地日置で死去し、
自ら創建した光禅寺に葬られました。

肝心の島津常久の墓ですが、
発見する事は出来ませんでした。
文献でも始め大乗寺に葬られ、
後に光禅寺に改葬されたとなっており、
間違いないハズなのですが・・・。

墓所にある古い墓の碑銘を見ても、
常久らしきものは無し。


もしかしたらこれ?
他の当主の墓に比べ余りにも小さいし、
寛延4年(1751)建立となっているので、
たぶん違うと思いますが・・。

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