大湯館は大湯城とも呼ばれ、
正確な築城年は不明ながら鎌倉中期に、
大湯氏が築城して居住したとされます。
戦国時代に大湯氏は南部家の配下となり、
江戸時代初期もこの地を治めましたが、
正保年間(1644~48)に断絶した為、
大湯は盛岡藩御三家北家が拝領。
後に一国一城令で廃城となりますが、
二ノ丸跡に居館(大湯新城)が建てられ、
大湯の支配拠点となっています。
「大湯城址案内図」。
大湯館は大湯川南側の台地に建てられ、
その外城口は麓にありますが、
今回の目的は江戸期の大湯新城である為、
車で裏手より散策しました。
但し訪問時の鹿角市は熊が出没するらしく、
あまり悠長に歩くのは危険。
熊除け鈴を片手に恐る恐る歩きました。
「大湯新城跡(大湯城二ノ丸跡)」。
一面フキとヒナギクに覆われた跡地。
ここに居館が建っていたようです。
北家当主は後に藩命で南部姓を名乗り、
大湯南部家となっています。
当主は代々盛岡藩家老職を務めた為、
盛岡城下に在住しており、
大湯新城は家臣の汲川家に下賜され、
汲川家が城代家老として代々居住。
その為に汲川屋敷とも呼ばれました。
「大湯新城稲荷神社」。
紫波稲荷神社(志和稲荷神社)より分祀され、
屋敷神として拝まれた神社。
右手の石灯篭に[十六の菊模様]があったが、
風化し見えなくなったとのこと。
祠はかなり痛んでいました。
ついでなので本丸跡へも行ってみます。
「桂井戸」。
城内や武家屋敷の人々が、
生活用水として使った井戸とのこと。
大手口から本丸跡へ。
本丸は意外と広い。
熊が出ないかと心配しながら進みます。
「本丸跡」。
標柱は大湯新城となっており、
近くにある大湯鹿倉城に対して、
大湯新城としているようです、
本来この辺りの城郭は、
〇〇館と呼ばれていたようで、
正確には大湯館と呼ぶのが正しい。
大湯新城も後世の呼び名で、
そのまま大湯館と呼ばれたか、
汲川屋敷と呼ばれたと思われます。
大湯館は館として存続していたようで、
要害として江戸期を通じて維持され、
藩境の守りとなっていたのでしょう。
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