姫路藩酒井家の家老河合(川合)家は、
遠州松葉城主河合宗忠の子で、
徳川家康に仕えた河合宗在を祖とし、
酒井正親に与力となって後に家臣となり、
代々雅楽頭家の家老を務めた家系。
4代当主川合宗次が川合姓に改め、
12代河合寸翁が旧姓に戻しています。
「河合家墓所」。
仁寿山西南麓にある河合家の墓所。
10代寸翁が坂田町善導寺の祖先の墓を、
この地に移して墓所としたもの。
初代河合宗在から、
2代河合某、3代河合宗則、
4代川合宗次、5代川合宗賀、
6代川合章恒と続き、
7代川合定恒の代に姫路に移封となります。
「俊成院智廓慧然居士(左)」、
「恵松院心月善明圓晴大姉(右)」。
7代当主川合定恒の墓と、
その妻籠谷氏の墓。
前橋藩酒井家家老川合章恒の子。
当時の前橋藩は財政難であった為、
改革派の家臣らは他領転封を画策。
しかし定恒は前橋城は神君より任され、
永代に守護すべしと与えられた地で、
これを離れるのは不忠と反対しました。
それでも家老本多光彬と用人犬塚又内は、
幕閣への工作を行って転封に成功し、
寛延2年(1749)に姫路藩への移転が決定。
定恒も仕方なくこれに従い、
姫路に先行して転封の準備を行いますが、
大雨により船場川が決壊してしまい、
姫路城下は大洪水となりました。
これに定恒は独断で避難民を城内に入れ、
更に米蔵から被災者に備蓄米を与え、
多くの被災者を救います。
その後に姫路藩への転封は完了し、
洪水からの復興も進んだ寛延4年(1751)、
転封を主導した本多光彬と犬塚又内を、
自宅に招いたうえで殺害し自らも自害。
川合家は一時取り潰しとなりますが、
宝暦5年(1755)に再興が許され、
次男の川合宗見が家督を相続し、
旧禄1000石を与えられました。
8代川合宗見の墓は随願寺霊苑。
「姫路故家老寸翁河合君之墓(左)」、
「先妣長野孺人之墓(右)」。
9代当主河合道臣(寸翁)の墓と、
その夫人長野氏の墓。
道臣は8代宗見の次男に生まれ、
父の死後に家督を継いで家老に就任。
2代藩主酒井忠以から、酒井忠道、
酒井忠実、酒井忠学と4代に仕え、
壊滅的な藩財政の立て直しを主導します。
質素倹約、農政改革と農民救済、
朝鮮人参やサトウキビ栽培の奨励、
湾岸整備と流通網の構築、
木綿、塩、皮革、竜山石、鉄製品等、
特産品の専売制導入を行い、
莫大な利益を得る事に成功。
27年で負債完済を成し遂げました。
天保12年(1841)、死去。
「河合屏山府君之墓(左)」、
「琴泉河合孺人之墓(右)」。
10代当主河合良翰(屏山)の墓と、
寸翁の娘で夫人の琴泉の墓。
良翰は姫路藩士松下高知の二男で、
3歳で寸翁の養子となっており、
後に寸翁の娘琴泉を娶りました。
寸翁の隠居に伴い家督を相続。
嘉永元年に隠居しており、
後に藩内尊攘派を支援しました。
跡を継いでいた寸翁の実子河合良臣が、
文久2年に京都で病死した為、
再度家督を相続して家老に復帰。
しかし元治元年に起こった甲子の獄で、
藩内尊攘派が断罪されるに至り、
江戸下屋敷に幽閉されています。
明治元年に解放されて帰国すると、
戊辰の獄を主導して佐幕派を処断し、
他藩に先駆けて版籍奉還を建白。
その後は執政として藩政を執り、
明治3年には大参事に就任しており、
廃藩後の明治9年に死去しています。
「姫路故家老素堂河合君之墓(右)」、
「祖妣長野孺人之墓(左)」。
11代当主河合良臣の墓と、
夫人の長野氏の墓。
良臣は9代寸翁の実子でしたが、
幼少の為に姉婿良翰が家督を相続し、
良翰の養子となりました。
養父良翰の隠居により跡を継ぎ、
家老として周旋活動を行いますが、
文久2年に京都で客死しています。
なかなか粒ぞろいの河合家。
調べれば調べるほど面白い。
ここに居ない8代川合宗見や、
別家となった川合定連ら定恒の子らも、
優秀な人物達だったようです。
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