随願寺は増位山山頂に位置しますが、
その山麗に残る諸堂の念仏堂は、
榊原忠次が夫人を供養する為に、
常行三昧堂として建てたものという。
「念仏堂」。
本尊は阿弥陀三尊。
応徳2年(1085)に白河天皇が、
中宮藤原賢子の菩提を弔う為に、
二階五間の堂に改築したとされますが、
現在の建物は文化6年(1806)築で、
大工棟梁池内忠兵衛によるもの。
ここには松尾芭蕉の遺品の笠と蓑が、
保存されているようです。
念仏堂の近くには随願寺の墓地があり、
姫路藩士の墓が多く残っています。
「随願寺霊苑」。
念仏堂に隣接する墓地。
多くの姫路藩士及びその子孫の墓があり、
高い位置には家老家の墓所があります。
姫路藩家老川合家の墓所。
「川合蔵人白翁君墓(左)」、
「川合甚四郎君墓(中央)」、
「信篤院神尾夫人墓(右)」。
川合定連(白翁)の墓、
8代当主川合宗見の墓、
宗見夫人神尾氏の墓。
7代当主河井定恒は姫路藩転封時の家老で、
藩を窮地に貶めた家老本多光彬と、
用人犬塚又内を殺害した後に自刃。
これにより川合家は取り潰されますが、
定恒の長男定連は新知500石を与えられ、
別家として家老格に抜擢されます。
しかし定連は間もなく病を理由に隠居。
後に次男宗見に川合家再興が許され、
小姓番、番頭、芸事奉行、年寄を経て、
家老となって旧禄1000石を回復し、
川合家は家老職に返り咲きました。
宗見は天明7年(1787)に死去しますが、
その家督は9代河合道臣(寸翁)が継ぎ、
姫路藩の財政再建に大きく貢献しています。
一方若くして隠居した定連は、
新藩主酒井忠以の信頼を得るに至り、
後に家老に再任。
日光東照宮の修理普請役を務め、
光格天皇即位で忠以が名代を命じられると、
その資金調達を担当しました。
後に卒中を患って再度隠居。
寛政11年(1799)に死去しています。
他の当主の墓所は仁寿山の河合家墓所。
「高須隼人家墓所」。
筆頭家老高須隼人家の歴代墓所。
高須廣達、高須大善、高須天水、
高須枕流等の名が見られます。
系図がなくて紹介できませんが、
姫路移封後の歴代が葬られている模様。
「書山高須府君墓」。
幕末期の家老高須隼人廣正の墓。
筆頭家老ながら書画を能くし、
南蘋派の画家琴陵を姫路に招きました。
また藩校好古堂の総督となっており、
藩内に広く学問を奨励。
藩主酒井忠績が老中首座に任じられると、
佐幕派として藩内尊攘派を弾圧。
甲子の獄を主導しています。
慶応3年に51歳で死去。
「松平家墓所」。
こちらも家老家である松平家の墓所。
松平草斎、松平哲文軒、松平瑞章軒等、
当主と思われる墓碑が連なりますが、
こちらも資料がなく紹介できません。
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・兵庫県姫路市 姫路宿跡
西国街道の10番目の宿場町。
・兵庫県姫路市 景福寺
姫路藩士らの墓がある寺院。
・兵庫県姫路市 随願寺/榊原家墓所
山頂にある随願寺。