崇徳天皇は75代天皇で、
74代鳥羽天皇の譲位により5歳で即位。
祖父の白河法皇が院政を行っており、
その死後は鳥羽上皇が院政を開始しました。
鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛し、
得子との子体仁親王への譲位をせまり、
体仁親王は76代近衛天皇として即位。
しかし久寿2年(1155)に近衛天皇は崩御し、
鳥羽上皇の第四皇子雅仁親王が即位。
77代後白河天皇となっていますが、
翌保元元年(1156)に鳥羽法皇が崩御すると、
崇徳上皇は後白河自天皇と対立し、
保元の乱が勃発して軍事衝突に発展。
しかし崇徳上皇は敗れて讃岐に流されて、
長寛2年(1164)に崩御しました。
御陵は香川県坂出市の白峯陵。
配流後の崇徳上皇は仏教に傾倒。
五部大乗経の写本に専念し、
乱の戦死者供養と反省の証として、
書いた写本を朝廷に贈りましたが、
後白河天皇は呪詛を疑って拒否し、
写本を送り返してしまいます。
これに激しく怒った崇徳上皇は激怒し、
写本に血で呪詛の言葉を書き込み、
以後は爪や髪、髭を伸ばし続けたとされ、
崩御後に棺桶の蓋を閉めても、
隙間から血が溢れ出たとされています。
後白河天皇は崇徳上皇の崩御後、
服喪の儀も行わず朝廷は無視しますが、
後白河天皇に近しい人々が相次いで死亡し、
多くの災害や事件が発生。
これが崇徳上皇の怨霊の仕業とされ、
朝廷は院号追贈、崇徳院廟建立等を行い、
怨念の怒りを鎮めようとしています。
「崇徳天皇御陵」。
崇徳天皇の寵愛を受けていた阿波内侍は、
崩御の知らせを聞くと出家して尼となり、
遺髪を請い受けてこの場所に塚を築き、
亡き崇徳帝の霊を慰めました。
つまり遺髪墓ということです。
内部中央には巨木が立っており、
その根許に墓石がありました。
御陵では毎月21日に月命日として、
白峯神宮の神職が月次祭を奉仕し、
祇園の女将らが参列しているとのこと。
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