岩屋神社は英彦山修験道及び、
宝満山修験道の修行の場とされた地で、
その歴史は紀元前とされています。
宝珠山邑岩屋神社来歴略記によれば、
崇神天皇2年(紀元前96)に岩屋に神が鎮座し、
継体天皇26年(532)に善正法師が彦山に続き、
この地に寺院を開山。
欽明天皇8年(547)に権現岩に霊光があり、
山頂から[宝珠石]が出現したとされ、
これを直ちに社殿に安置してます。
その101年後の大化4年(648)にお告げがあり、
茅薦に包んで祀ることとなり、
以後はこれが御神体となりました。
「二の鳥居」。
一の鳥居は約300m東の川沿いですが、
今回は二の鳥居より参拝。
境内地を含む一帯は[岩屋公園]となっており、
鳥居横には案内地図が設置されています。
「琴平神社」。
急な坂から石段を登ると現れる琴平神社。
周辺には五百羅漢が置かれていますが、
廃仏毀釈により首が無くなっています。
「馬の首根岩の洞門」。
岩盤をくり貫いて洞門が開けられており、
岩盤の西側へ行く事が出来ます。
天保年間(1830-1843)に開けられたとのこと。
「三の鳥居」。
洞門の西側は少し広くなっており、
三の鳥居と急な石段の先に本殿が見えます。
「本殿」。
石段を登った先にある本殿。
御神体の[宝珠石]が祀られているようで、
その[宝珠石]を見ると目が潰れるとのこと。
4年に一度包んだ茅薦を取り換えるようで、
その際はどうしているのでしょう??
この神事は[薦替え神事]と呼ばれます。
御祭神は天忍穂耳尊(阿弥陀如来)、
伊弉諾尊(釈迦如来)、
伊弉冊尊(観世音菩薩)の三柱。
国指定重要文化財。
「針の耳」。
本殿の横にある岩盤の割れ目。
親不孝者が通ると上から石が落ちて来るという。
修行者はここを通って生まれ変わり、
生まれ変わるのたとされました。
「権現岩」。
本殿後ろの権現岩。
本殿はこの岩のくぼみに建てられています。
[宝珠石]はこの山頂にあったらしい。
「熊野神社」。
岩屋神社の境内社熊野神社。
岩壁中程に懸造りで造られた簡素な社殿で、
江戸中期の当初材のまま現存しています。
こちらも国指定重要文化財。
中世末の修験道は天台宗系の本山派と、
真言宗系の当山派の二派に分かれ、
※本山派:修行拠点は熊野三山で本寺は聖護院。
当山派:修行拠点は大峰山で本寺は醍醐寺。
江戸時代には幕府による統制が強まります。
慶長18年(1613)には修験道法度を発し、
本山派と当山派を互いに牽制。
英彦山は本山派ではありましたが、
独自の発展を遂げていたことから、
聖護院との本末論争に発展します。
承応3年(1654)に当山派の明厳院により、
福岡藩内の山伏の支配が目論まれると、
宝満山は英彦山に協力を求め、
宝満山は英彦山の末山の証文を受け、
当山派の支配に対抗しました。
しかし宝満山は英彦山から末山扱いされ、
これに宝満山は反発し、
聖護院の支配下に入って英彦山と対立。
双方が激しく本末を主張しますが、
元禄9年(1696)に幕府の裁定が下り、
英彦山は別格本山と認められ、
宝満山は聖護院の末山と定められます。
岩屋社は双方の修行地でしたが、
宝満山の末寺となったようで、
福岡藩から本殿等の寄進を受けており、
以降も藩に庇護されましたが、
明治5年の修験宗廃止令により、
岩屋神社となって現在に至ります。
■関連記事■
・福岡県田川郡 英彦山神宮
英彦山修験道の聖地。
・京都府京都市 聖護院
本山修験宗の総本山。