聖護院は本山修験宗の総本山。
正式名称は[聖護院門跡]ですが、
この[門跡]とは出家した皇族や摂家が、
住職を務めた寺という意味です。
寛治4年(1090)の白河上皇の熊野御幸で、
園城寺(三井寺)の僧増誉が先達役を務め、
この功で熊野三山検校に任命され、
役行者が創建したとされる常光寺を下賜。
増誉はこれを聖護院と改称し、
熊野神社(京都熊野神社)を守護社とします。
増誉は全国の本山派の修験者を統括し、
以後も歴代門跡が熊野御幸の先達を務め、
鎌倉末期の門跡であった覚助法親王は、
熊野三山検校の他にも、
園城寺長吏、鶴岡八幡宮別当を兼任し、
門跡寺院としての地位を確立。
後に組織化も進められて勢力を拡大させ、
最盛期には2万5000の末寺を持ちました。
「山門」。
延宝4年(1676)建立の山門。
聖護院は延宝大火で延焼しており、
翌年に現在地に再建されていますが、
この山門はその際に建てられたもの。
「本堂(右奥)」、
「宸殿(左手前)」。
昭和43年に建替えられた本堂と、
江戸時代中期建立の宸殿。
天明8年(1788)の天明大火の際、
この宸殿を光格天皇が仮御所としました。
嘉永7年(1854)の毛虫焼けでは、
※仙洞御所で梅の木の毛虫を焼き、
その火が燃え広がった事が原因の大火。
禁裏に延焼して内待所から紫宸殿を焼き、
更に190町余5000軒以上が焼失します。
その際に孝明天皇も宸殿を仮御所とし、
安政元年の御所の火災の際も、
この宸殿が使用されました。
京都守護職となった会津藩主松平容保は、
元治元年に聖護院の寺領聖護院村に、
3万7000坪の練兵所を設置。
※現在の京都大学医学部附属病院付近。
会津藩兵が訓練を行っています。
明治5年に修験道廃止令が発布され、
修験道は禁止されるに至った為、
聖護院は天台寺門宗に所属。
昭和21年に独立して修験宗を設立し、
昭和32年に本山修験宗となりました。
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