福岡県久留米市 梅林寺/寄せ墓

梅林寺修行道場として知られる古刹で、
久留米藩有馬家の菩提寺でもある寺。
既に訪問済みのお寺ではありますが、
幕末に活躍した藩士らの墓が、
寄せ墓に集められているとのことで、
再度訪問することとしました。


梅林寺」。
初代藩主有馬豊氏久留米に移封された際、
福知山にあった瑞巌寺を移転させたもので、
有馬則頼の分霊を移して祀り、
その法号梅林院から梅林寺と改めています。


寄せ墓」。
本堂西側の低くなった場所にある寄せ墓。
その墓石の多さから察するに、
かつては広大な墓地があったのでしょう。


稲次因幡供養塔」。
久留米藩家老脇稲次因幡正訓の供養塔。
稲次は久留米藩重臣水野正名や、
吉田博文の実弟で尊攘派の家老。
門閥派が藩主廃立を企てていると、
藩主有馬頼咸に申し立てますが、
陰謀の証拠は発見されることはなく、
讒言と判断されて蟄居処分を受け、
有馬右近宅の座敷牢に入れられ、
嘉永6年に自刃しました。
この供養塔は右近宅に建てられ、
後に宅跡が畑となっていたようですが、
そのまま放置されていたようで、
これを昭和51年にここに移転し、
その霊を慰めています。


贈従五位山田䄿養墓(中央小さめの墓石)」。
久留米藩士山田正之助の墓。
寄せ墓中央前から2列目にあります。
正之助は山田忠兵衛(馬廻200石)の長男で、
藩主の小姓を務めた後、
慶応3年に江戸で勝海舟に学びました。
帰郷後は藩海軍に所属して戊辰戦争に参加。
凱旋後は藩主の許可を得て米国に留学し、
ハーランド軍学校や、
ハーバード大学法学部に入学しました。
※同大学東洋人留学生第一号。
卒業後は米国で法律事務に携わった後、
明治18年に帰国。
横浜で海外貿易を精力的に行い、
後に日本貿易協会会長に就任しています。
明治40年、58歳で死去。


小川徳先生墓」。
久留米縞織創始者小川トクの寿墓。
トクは武蔵国宮ヶ谷塔村に生まれ、
結婚後に江戸で暮らしていましたが、
そこで久留米藩の乳母となった縁から、
後に久留米に移住しました。
トクは久留米に以外の織物が、
生産されていないことに気付き、
縞木綿の生産を開始。
瞬く間にこれが軌道に乗り、
久留米縞織は新しい特産物となり、
現在も続いています。
この墓は弟子らが建立した寿墓で、
トクは明治43年に故郷に帰り、
大正2年に死去ました。


池田八束墓」。
久留米藩士小河真文の墓。
池田八束は変名。
小河は久留米尊攘派の首魁で、
開明派家老不破美作を同志と共に暗殺し、
藩論を尊皇攘夷に変更させた人物。
更に七生隊を結成して反対派を粛清し、
恐怖によって藩政を掌握しました。
維新後も尊皇攘夷を固持し、
明治政府にも反抗的であったようで、
逃亡する大楽源太郎を隠匿。
これが明治政府に察知されるに至り、
藩知事有馬頼咸の拘禁にも発展して、
大参事水野正名と共に捕縛され、
反乱分子の首魁として斬首されています。

久留米藩は水戸藩長州藩など、
尊攘大藩と同様かそれ以上の過激さで、
幾度も闘争が繰り広げられました。
但し他と比べて資料や記録が少ないようで、
なかなかその実態が掴みづらい。
少しずつでもその真実に近づけるよう、
調べて行きたいと思います。

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