福岡県久留米市 十志士碑

幕末の久留米藩では有馬監物昌長や、
不破美作正寛開国派が藩政を担当。
藩主有馬頼咸徳川家を支持し、
徳川家を中心とした列侯会議を行い、
国政を運営することに賛同していました。
このような久留米藩の状況に対し、
藩内の若い尊攘派藩士24名は不満を抱き、
慶応4年1月26日に不破美作を暗殺。
彼らは暗殺後直ちに藩政府に対し、
親幕派の排除及び尊攘派登用を訴え、
藩政府もこの意見に従って、
人事の更迭と処分を行っています。
これにより尊攘派の水野正名が指名され、
水野は早速有馬監物ら開国派を罷免。
役格及び知行召揚、永揚屋、永蟄居等、
30数名の大量処分を行いました。
不破暗殺の実行者は次々に登用され、
水野ら尊攘派は藩政を掌握。
翌明治2年1月25日に親幕派9士が、
徳雲寺で切腹させられました。


十志士碑」。
梅林寺外苑を廻って北側に行くと、
墓地崖下にひっそり十志士碑があります。
これは明治二年殉難十志士の慰霊碑で、
この十志士は今井栄松岡伝十郎
松崎誠蔵本荘忠太梯譲平
喜多村弥六石野道衛久徳与十郎
北川正介の徳雲寺で切腹した9士と、
大坂で切腹した吉村武兵衛を含めたもの。
彼らは久留米藩内でも開明的な人物らで、
実務能力にも長けていたとされ、
彼らを死に至らしめた久留米藩は、
優れた人材が枯渇してしまい、
時代遅れの過激派だけが残りました。
この為に明治新政府から警戒され、
久留米藩難事件へと至る事となります。

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