久留米市にある山川招魂社に行ってみました。
久留米の幕末志士といえば、
水天宮の神官で過激な尊攘活動家眞木和泉。
彼によって久留米藩で水戸学が盛んとなり、
天保学連と呼ばれた尊攘派が生まれました。
しかしな門閥派との抗争によって弾圧され、
藩内の天保学連は壊滅。
久留米藩は佐幕派によって運営され、
眞木らは10年に及ぶ蟄居処分となります。
この事件は嘉永の大獄と呼ばれました。
佐幕派に牛耳られた久留米では活動できず、
京都で活動する事となった眞木らは、
薩摩藩の尊攘派らと決起を計画。
しかし計画は久光の知る所となり、
寺田屋事件が発生しました。
寺田屋にて薩摩藩士の同士討ちが行われ、
薩摩藩士らと共に他藩士も投降。
眞木ら久留米藩メンバーは、
久留米藩に引き取られ投獄されます。
久留米藩は眞木の処刑を決めますが、
その情報は長州藩へと届けられ、
これに対応したのが中山忠光。
すぐに駆けつけて眞木の釈放を要求。
久留米藩は仕方なく眞木を釈放しました。
※記事はこちら。
こうして眞木らは長州藩に接近し、
再度京都で活動する事となり、
その末に禁門の変が発生するわけです。
「山川招魂社」。
明治2年に藩主有馬頼咸が建立したもの。
尊皇思想家高山彦九郎を始め、
藩の殉難尊攘志士および戊辰戦争戦死者、
佐賀の乱、西南戦争戦死者を合祀。
石段を登ると現れる爆弾三勇士之碑。
第一次上海事変に於いて鉄条網破壊の為、
破壊筒を持って戦死した3名の碑で、
久留米の独立工兵第18大隊所属でした。
ちなみにこれは特攻ではなく、
危険度でしたが生還を前提とした作戦で、
爆発に巻き込まれての戦死でした。
「高山仲縄祠堂之碑」。
社殿が創建された事を記念した碑。
高山彦九郎が主祭神ということですね。
「御楯神社 社殿」。
山川招魂社として知られていますが、
社殿の建立時に御楯神社と称しています。
「官修墓地」。
社殿の裏手には墓地があり、
招魂墓が並んでいます。
約300柱の招魂墓が並んでいました。
これ程とは思わなかったのでびっくり。
墓碑を見ると陸軍と刻まれていましたので、
大東亜戦争のものだなと思ったら、
よく見ると明治10年と刻まれており、
西南戦争の戦死者のものでした。
田原坂の戦いで負傷した兵達の多くは、
久留米病院に運びこまれました。
これらの招魂墓の多くは、
陸軍及び警察官のものです。
「佐賀賊徒追討戦死之墓」。
墓地中央に並ぶ3基の大きな墓碑。
何れにも、
[佐賀賊徒追討戦死之墓]と刻まれており、
佐賀の乱の官軍戦死者のもの。
裏側に将校、下士官、兵卒の名があります。
墓地の南西側の列は、
幕末久留米藩殉難者のもの。
下関で暗殺された真木菊四郎もあります。
禁門の変や戊辰戦争の殉難者のもの。
六角獄舎で殺された酒井傅次郎や、
鷹司邸で自害した原通太など。
「故和泉守真木保臣」、
「佐々金平真武墓」。
佐々金平は久留米藩の尊攘派藩士。
佐幕派の参政不破美作を同志らと暗殺し、
藩論を勤皇へと移行させました。
士民を混成した[応変隊]の編制を提案し、
応変隊参謀に抜擢されて戊辰戦争に従軍。
松前の立石野の戦いで戦死しました。
「稲次因幡正訓墓」。
稲次正訓は久留米藩重臣水野正名や、
吉田博文の実弟で兄弟同様の尊攘派藩士。
門閥派が藩主廃立を企てていると、
藩主有馬頼咸に申し立てますが、
陰謀の証拠は発見されることはなく、
讒言と判断されて自刃しました。
この件で久留米藩の尊攘派は失脚し、
嘉永の大獄が起こってます。
ここは山口県の招魂社に劣らぬもので、
流石は眞木らを生んだ久留米藩。
西南戦争の戦死者のもの多くありますが、
彼らは久留米出身ではないようですし、
他国の高山彦九郎も祀られています。
地元の殉難者を祀る招魂社としては、
珍しいパターンではないでしょうか?
■関連記事■
・福岡県久留米市 遍照院/高山彦九郎墓所
久留米で自刃した高山彦九郎の墓。
・福岡県久留米市 久留米城跡
久留米藩有馬家の居城跡。
・福岡県久留米市 水天宮
真木和泉は水天宮の神官でした。