鳥羽伏見の戦いの際、
新政府軍陣営に錦旗が掲げられた為、
これにより旧幕府軍は賊軍となりました。
朝敵となることを恐れた徳川慶喜は、
密かに大坂城を脱出します。
錦の御旗に関しては、
正当性や有効性に諸説がありますが、
とにかく官軍の象徴ではありました。
元々は朝敵討伐の証として、
朝廷から与えられるもので、
後鳥羽上皇が藤原秀康に与えたのが、
その最初であったとされてます(承久の乱)。
※この承久の乱では錦旗を掲げた藤原秀康が、
鎌倉の幕府軍に敗北しています。
錦の御旗は官軍の大将が用いる御旗で、
天皇の治罰綸旨が必要でしたが、
実際には旗を与えるわけではなく、
天皇より「旗を掲げていいよ」と、
許しを得るだけだったようで、
実物の御旗は製作しなければなりません。
つまりどんなデザインでも良かったわけです。
鳥羽伏見の戦いで掲げられた錦の御旗は、
岩倉具視の発案により玉松操がデザインし、
京都市中の大和錦と紅白の緞子が調達され、
半分は京都薩摩藩邸で半分は長州で、
それぞれで製造したもの。
日輪と月輪の施された大和錦の幟は、
その意味は分からずとも、
目立つものだった事は間違いないでしょう。
さてさて、
「錦の御旗を最初に掲げたのは晋作??」
ですが、
一見狂信的な晋作信者と疑われそうです。
実は坂本龍馬が慶応2年12月4日付で、
坂本権平とその家族に宛てた手紙の中に、
晋作が小倉戦争で錦旗を掲げたと、
しっかりと記されていました。
高杉普作ハ本陣より錦之手のぼりにて下知し、
薩州の使者村田新八と
色々咄しなどいたしへた/\
笑ながら気を付て居る。
敵ハ肥後の兵などにて強かり
けれバ、普作下知して酒樽を数々かき出して、
戦場ニて是を開かせなどして
しきりに戦ハセ・・
(龍馬の手紙より抜粋)
晋作は本陣で「錦之手のぼり」にて指揮し、
薩摩の使者村田新八と笑談し、
兵に酒樽を振舞って戦わせています。
「錦」というのは二色以上の色糸で、
柄を織り出した絹織物の事で、
豪華な織物の総称として表現されています。
「手のぼり」は文字通り手で持つ幟の事で、
幟は旗の一形式ですので、
旗と呼んでも間違いではない。
つまり晋作は錦旗を本陣に置いていたのです。
晋作ならば酔狂も絡めて、
「長州藩は勤皇であるので官軍である」
と錦旗を掲げる事も無くはない。
一般的には高価で風になびきにくい錦は、
幟に使用する事はあまり無いでしょう。
仮に本当に錦の幟があったとしたら、
錦の御旗だという意識はあったはず。
この錦旗は薩摩の村田も見てるはずですので、
倒幕の際に錦旗を正式に作ろうとしても、
辻褄が合いますね。
それならば最初に錦の御旗を揚げたのは、
晋作ということになるでしょう。
・・奇兵隊の菅原大神と書かれた守護旗が、
現存しています。
清末藩主毛利元純の筆のその旗は白地のもの。
雷神でもある菅原道真は農村でも信仰され、
農民が多い奇兵隊で守護神としていました。
もちろん開闢総督である晋作も、
菅原道真を信仰しています。
現存する「菅原大神」の守護旗は、
※防府天満宮所蔵。
白地に縦書で菅原大神と書かれていますが、
写真では下の方に錦が付いています・・。
この旗は戦場には持ち出されず、
本陣に置かれたとされていますので、
掛け軸のように錦で表装されていたようです。
ならば錦の手のぼりと表現しても良い。
もしかしたらこれのことかもしれません。
晋作が錦の御旗を本陣に置いたという話は、
真偽は不明ながらロマンがあります。
晋作ならばやりかねない。
そんな気もしますよね。
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