大分県竹田市 岡藩中川家墓所(再訪)

6年前に訪問した岡藩中川家墓所
その際は初代藩主と幕末の藩主のみ、
写真を撮って記事としていましたが、
今回全ての藩主の墓を撮影する為、
再度訪問する事としました。


岡藩主おたまや公園」。
岡藩の初代藩主中川秀成は、
稲葉川対岸に御茶屋を建設させますが、
その完成を待たずに死去。
跡を継いだ2代藩主中川久盛は、
御茶屋の建設を中止して碧雲寺を建立し、
父の菩提寺として墓所を造営しました。
以後は歴代藩主の墓所とされ、
碧雲寺は岡藩の庇護を受けて繁栄します。
現在は庭園墓所が寺の管理から離れ、
竹田市が管理運営しています。


碧雲寺殿円翁宗鑑大居士」。
初代藩主(2代当主)中川秀成の墓。
秀成は織田家家臣中川清秀(初代当主)の次男。
清秀が賤ヶ岳の戦いで討死した為、
兄の中川秀政が家督を継いでいましたが、
秀政は文禄の役の鷹狩で殺されてしまい、
中川家はその失態を咎められますが、
父清秀の武功に免じてこれを許され、
遺領の半分である6万6000石を相続。
関ヶ原の戦いの一環の佐賀関の戦いでは、
東軍として臼杵城主太田一吉と戦い、
家臣に多くの犠牲を出しますが、
この功が認められて所領が安堵されました。


法臺院殿心鐵宗安大居士」。
2代藩主(3代当主)中川久盛の墓。
久盛は初代秀成の長男として生まれ、
佐久間盛政次女虎姫を母に持ちます。
父の死去に伴い家督を相続し、
39年の治世の後に隠居。
藩政の法制度を整えた他に、
緒方井路の開削にも着手しました。
承応2年(1653)、死去。

3代藩主(4代当主)中川久清の墓はここに無く、
大船山山頂に墓所があります。


寶淨院殿榮松久山大居士」。
4代藩主(5代当主)中川久恒の墓。
久恒は3代久清の長男として生まれ、
父の隠居により家督を継いでいますが、
名君であった父に実権を握られました。
生来病弱であったようですが、
父や家老となった4人の実弟らにより、
藩政が代行されています。
元禄8年(1695)、死去。


天眞院殿元良貞山大居士」。
5代藩主(6代当主)中川久通の墓。
久通は4代久恒の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
臼杵藩6代藩主稲葉知通と共に、
豊後一図絵(元禄郷帳)を作成させており、
その付図を幕府に献納しています。
天災が相次いで藩の財政は困窮した為、
家臣らの半知を実施した他、
土木や治水政策も実施しました。
宝永7年(1710)、死去。


通玄院殿雲外了山大居士」。
6代藩主(7代当主)中川久忠の墓。
久忠は5代久通の三男として生まれ、
兄らの早世により継嗣となっており、
父の名代として二元政治を行い、
若くして藩政に関わっています。
父の死去に伴い家督を継ぎますが、
治世では大火旱魃飢饉に見舞われ、
財政は安定しませんでした。
寛保2年(1742)、死去。

7代藩主(8代当主)中川久慶は藩主就任1年後に死去。
江戸の青松寺に葬られました。

8代藩主(9代当主)中川久貞の墓もここには無く、
小富士山山頂に墓所があります。


厳祇院殿日新敬山大居士」。
9代藩主(10代当主)中川久持の墓。
久持は8代久貞の次男中川久徳の次男で、
久徳が不行跡で廃嫡された為、
嫡孫となって祖父の死後に家督を相続。
寛政10年(1798)に8年の治世で急死しました。
この久持の墓のみ離れています。

10代藩主(11代当主)中川久貴も青松寺に埋葬。


大鑑院殿威凞襄山大居士」。
11代藩主(12代当主)中川久教の墓。
久教は彦根藩14代井伊直中の七男で、
大老井伊直弼の異母兄にあたります。
10代久貴の婿養子となって家督を継ぎ、
25年の治世では財政難に苦しみました。
天保11年(1840)、死去。


従三位中川久昭之墓(右)」、
正四位伯爵中川久成墓(左)」。
12代藩主(13代当主)中川久昭の墓と、
2代藩知事(14代当主)中川久成の墓。
久昭は津藩10代藤堂高兌の次男で、
11代久教の婿養子となって家督を相続。
藩内の尊皇攘夷派を排除しており、
幕末の動乱期を傍観します。
この姿勢を咎められており、
新政府への協力も消極的でした。
この為に明治2年に一時謹慎処分を受け、
許されて藩知事となっていますが、
同年に隠居しています。
明治22年、死去。
久成は久昭の隠居に伴い藩知事となり、
廃藩置県後は東京へ移住。
明治8年に司法省に出仕しており、
後に貴族院議員となりました。
明治30年、死去。
これらは青山霊園にあったもので、
平成21年に改葬されています。


中川久順
 室加智子之墓
(右)」、
中川家(左)」。
16代当主伯爵中川久順夫妻の墓と、
中川家の累代墓。
青松寺の7代藩主、10代藩主の墓は、
既に失われているとのこと。
この累代墓は15代当主中川久任以下、
青山霊園の六遺骨が改葬されていますが、
碑銘を見る限り2藩主は改葬されておらず、
どこに行ったのかは不明です。

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