帖佐は島津義弘の居館があった地で、
豊臣秀吉の太閤検地後に義弘に与えられ、
その居館(御屋地)が建てられました。
後に義弘は平松城(後の重富御仮屋)に移住し、
その居館を長女の千鶴に与えた為、
千鶴は[御屋地様]と呼称されています。
御屋地様の子島津久賀は帖佐地頭となり、
地頭御仮屋が置かれて帖佐郷を支配。
後に黒木の地頭に転任しており、
以後は黒木麓の領主となりました。
帖佐は直轄地として地頭が派遣されており、
物流の拠点であった帖佐を治めています。
「帖佐地頭仮屋跡(帖佐小学校)」。
帖佐地頭仮屋跡は帖佐小学校の敷地。
周囲に石垣が残されています。
帖佐小学校の西側の通りを北上。
義弘の居館跡へ行ってみます。
「島津義弘居館跡石垣」。
島津義弘居館跡があった場所で、
現在は高麗稲荷神社の境内地。
居館は[御屋地]と通称されていました。
「惟新公邸址之碑」。
島津義久の居館跡を示す碑。
[惟新公]とは義久の敬称です。
義弘は後に平松城に移った為、
夫に先立たれた長女に居館を与えました。
後に義弘が加治木に再度移ると、
御屋地様は平松城を与えられており、
そこで晩年を過ごしたとされます。
居館はその後どうなったか不明ですが、
文政10年(1827)に稲荷社が移鎮してるので、
放置されていたのでしょう。
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