長州藩が維新に貢献出来た最大の理由は、
藩主が毛利敬親であったからだと思う。
同時期に活躍した雄藩には、
賢候とされる藩主がいますが、
敬親は賢候と称されることはありません。
四賢侯と呼ばれる福井藩の松平春嶽、
土佐藩の山内容堂、薩摩藩の島津斉彬、
宇和島藩の伊達宗城を筆頭に、
肥前藩の鍋島閑叟や水戸藩の徳川斉昭など、
譜代においても彦根藩の井伊直弼や、
福山藩の阿部正弘などが活躍し、
後世で評価されています。
彼等は奉られる殿様でありながら、
自ら藩政や幕政に関わっており、
なるほど賢候に値する人物達ではあります。
・・が、敬親はそうせい候などと呼ばれ、
献策をどんどん許して暴走させたなど、
あまり評価は高く無いような気がします。
ですが実際の敬親は優秀な人材を抜擢し、
良い献策は率先して採用するなど、
上記の偉い殿様連中とは違った方法で、
政治に向き合った藩主でした。
ワンマン経営のヤリ手社長に脚光が当たり、
なんだか凄い人達のようですが、
地に足の着いた企業というものは、
優秀な人材をうまく使う事できる会社で、
ヤリ手社長の会社のは長く持たないのが常。
そういう意味では敬親は優秀な殿様でした。
長州藩に人材が多かった訳ではなく、
埋もれていた人材が世に出る機会が、
この藩には多かったのです。
長州藩の藩主が敬親ではなかったならば、
村田清風の天保の改革もなく、
幕末の資金も得られなかったでしょうし、
吉田松陰は切腹させられたでしょうし、
久坂玄瑞ら身分の低い連中が、
尊皇攘夷運動をリードできませんし、
諸隊という新しい軍隊は生まれませんし、
幕府の威圧に屈していた事でしょう。
もっと敬親は評価されるべき藩主なのです。
・・で、その毛利敬親を祀っているのが、
山口市にある野田神社。
毛利元就を祀る豊栄神社と対を成します。
「大鳥居」。
野田神社と豊栄神社の共通の鳥居。
鳥居をくぐって手前が野田神社で、
奥が豊栄神社となっています。
「野田神社鳥居」。
明治6年に豊榮神社の境内に、
敬親を祀る社を建立。
敬親の諡号を社号忠正神社として名付け、
※毛利敬親の諡号は忠正。
翌年に地名から「野田神社」に改称。
大正4年に別格官幣社となりました。
「野田神社拝殿(手前)と御本殿(奥)」。
「一文字三ツ星」が神々しい。
流石に大毛利の殿様を祀る神社。
御祭神は毛利敬親公だけでしたが、
次代毛利元徳公も死後に合祀されています。
さて、この野田神社に対をなすように、
全く同じ拝殿と御本殿を持つ豊榮神社。
元々豊榮神社が先に建立されていました。
「豊榮神社鳥居」。
始祖毛利元就を祀る仰徳社を、
現在地に遷座したもの。
元就は正親町天皇の即位援助の功績があり、
明治天皇が元就に「豊栄」の神号を与え、
遷座の際に「豊榮神社」と改称されました。
「豊榮神社拝殿(手前)と御本殿(奥)」。
野田神社と全く同じ造りなのが面白い。
違うところは紫幕が菊花紋程度です。
元就は正親町天皇より菊花紋を下賜され、
左右対称のシンメトリーな二つの神社は、
大変珍しい。
始祖とか藩祖とかって、
どの藩でも別格扱いですが、
同等(豊榮神社の方が少し上)扱いで、
幕末の藩主毛利敬親を祀っております。
これは敬親が慕われていたからでしょうか?
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