足の裏の痛さに徒歩での移動を諦め、
電車に乗って仙台駅に帰ります。
すでに新幹線の時間も迫っており、
ここまでとするべきなのですが、
最後にどうしても訪問したい場所がありました。
それが清浄光院で、星恂太郎の墓所があります。
星恂太郎は額兵隊隊長なのですが、
昔、額兵隊の赤と黒のリバーシブル軍服を知り、
なんてオシャレなんだと感動した記憶があります。
その隊長の墓がすぐ近くにあるのに行かない訳にはいきません。
仙台駅からひと駅なので、最後に向かう事にしました。
仙台駅からJR仙山線に乗ってひと駅の東照宮駅で下車。
駅名からもわかるように、
最寄に仙台東照宮があります。
「仙岳院」。
仙台東照宮の別当寺であり、
上野寛永寺の末寺でもあります。
このことから輪王寺宮の宿泊所になりました。
明治元年9月10日の仙台藩の降伏まで、
輪王寺宮はここと白石城を往復しました。
「仙台東照宮」。
僕の地元には東照宮はありませんので、
同じ外様大名の仙台藩に東照宮が存在していることが不思議。
下衆な言い方をすれば、幕府への忠誠心アピールでしょうか?
葛西大崎一揆の鎮圧に出陣した徳川家康が、
一揆平定後にここにあった天神社の境内で休息したことが、
この東照宮を建てた由来だということらしい。
「仙台東照宮拝殿」。
この本殿を含め、ほとんど創建当時のもの。
市街の中心部ながら空襲にも耐えていたとは、
家康の威光もなかなかのものですね。
東照宮を出て、踏切を越えて清浄光院に向かいます。
「清浄光院」。
仙岳院の末寺であった寺院で、
一万日毎に供養塔を建てていた事から、
万日堂と呼ばれました。
願行寺、常念寺と共に仙台三回向寺のひとつとされ、
有無両縁仏の供養を行う大念仏供養を行っています。
現在の本堂は、弘化3年に焼失し翌年に再建されたもの。
「仙台睦之墓」。
山門を入ってすぐ左側に、
墓石が並べられている一角があります。
写真中央の「仙台睦之墓」は、
あとで調べたら遊女達の総墓らしい。
この墓石郡の中に、星恂太郎の碑があります。
「星恂太郎碑」。
これが墓かと思ったら違いました。
実は本堂の左側の墓地に星家の墓があり、
そこに星恂太郎が眠っているようです。
この碑をみて、すっかり墓だと思ってしまい、
肝心のお墓には参ることが出来ず帰ってしまいました。
ネットより画像を拝借。こちらが星恂太郎のお墓です。
すぐそこにあったのに参れなかったことが残念・・。
星恂太郎は、仙台東照宮宮司星道榮の子として生まれ、
台所人小島友治の養子となりましたが、
料理人を嫌がって実家に帰っています。
その後、武芸を修めて国学を習い、
尊皇攘夷運動に身を投じました。
藩内の開国派を国賊とみなし、徒党を組んで暗殺を計画。
藩内の開国論者であった大槻磐渓の暗殺に行った際に、
逆に説得されて開国派に転身。脱藩して江戸に出ます。
江戸に出たのはいいのもの滞在費に困り果て、
同藩の江戸勤番富田鐵之助に金を無心したところ、
富田は家老但木土佐に相談。但木の資金援助を得ました。
そして但木の薦めで洋式軍学を学ぶこととなります。
戊辰戦争が始まると但木は星を招聘し、
洋式軍隊である額兵隊を組織します。
しかし奥羽越列藩同盟軍が劣勢になり、
仙台藩の藩論は降伏恭順へと傾いていた為に、
これを潔しとせず、額兵隊と共に旧幕府艦隊と合流。
蝦夷共和国では歩兵頭並、第三列士満第二大隊長に就任。
木古内の戦いなどに参加しました。
黒田清隆が酒樽五樽と鮪五尾を送って来た際、
毒を恐れて皆が手を付けるのを躊躇する中、
星は率先してこれを飲んだというエピソードもあります。
戦争後は北海道で製塩業を営みますが、失敗して仙台に戻り、
持病の脚気が悪化し、明治9年に若くして死去しました。
戦後の不遇が残念なかぎり。
商売には向いていなかったのでしょうね。
脚気ということは栄養不足だったのでしょうから、
貧困にあえいでいたのかもしれません。
本来の専門である軍事の才能を生かして、
陸軍に入隊していれば違う道もあったかもしれませんね。
これにて今回の仙台史跡巡りは終了。
なんとか新幹線にも間に合いました。
帰った後に足の裏を見ると、
マメが左右あわせて7個も出来ており、
痛くて痛くてあとが大変でした。
■関連記事■
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奥羽越列藩同盟の軍務局副頭取玉蟲佐太夫の墓。
・宮城県仙台市 瑞鳳殿
伊達政宗など初期の藩主家墓所。
・宮城県仙台市 仙台城跡
仙台藩伊達家62万石の居城。