養賢寺は佐伯市にある臨済宗寺院。
佐伯藩初代藩主毛利高政が菩提寺建立の為、
京都の妙心寺から大観慈光禅師を招き、
慶長10年(1605)に創建されています。
「養賢寺」。
境内には白壁の本堂をはじめとして、
立派な建物が多くあるようで、
「豊後に過ぎたる養賢寺」と称されました。
但し[修行寺のため拝観はお断り]との事。
養賢寺の墓所より裏手にまわり、
佐伯藩毛利家の墓所へ。
「佐伯藩毛利家墓所」。
コの字状に整然と並ぶ五輪塔。
これらは藩主及び奥方らのもの。
「毛利高政霊廟」。
墓所の北東隅にある霊廟。
「毛利高政墓(養賢寺院殿)」。
霊廟内にある初代藩主毛利高政の墓。
高政は織田家家臣森高次の次男に生まれ、
羽柴秀吉に近習として出仕したという。
秀吉の子飼いとして譜代衆の1人となり、
安芸毛利家と対峙していた秀吉が、
停戦の際の人質として毛利輝元の預け、
その縁で後に輝元より毛利姓が与えられて、
以後は毛利姓を名乗るようになります。
以後は賤ケ岳、九州征伐、小田原攻めと、
秀吉の主要な戦いに参加しており、
文禄の役では敵将元豪を生け捕り、
豊後国内に2万石を与えられました。
慶長の役にも軍目付として参加し、
得意の大筒を用いて戦功を挙げています。
関ヶ原の戦いでは西軍に与しますが、
藤堂高虎のとりなしで所領は安堵され、
後に佐伯2万石に転封。
大坂の陣では活躍はしてませんが、
落城後の大坂城の天守に、
大筒を放って命中させる等、
砲術家としての高名だったようで、
仙台藩2代伊達忠宗や今治藩初代松平定房が、
高政に入門して砲術を学んでいます。
寛永5年(1628)、死去。
「2代毛利高成墓(松桂院殿)」。
2代藩主毛利高成の墓。
※碑銘は風化で読めないものが多く、
今回は「〇代〇〇墓」で統一します。
初代毛利高政の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
熊本藩加藤家の改易により、
岡藩2代中川久盛と熊本城番を務めますが、
その帰途に発病して危篤となり、
僅か4年の治世で急死しています。
「3代毛利高直墓(長川院殿)」。
3代藩主毛利高直の墓。
2代高成の長男として生まれ、
急死した父の家督を4歳で相続しました。
この相続に一悶着あったようで、
初代高政の弟毛利吉安が主導して、
幼少を理由に高政の次男毛利高定を擁立。
しかし幕府の裁定により高直が藩主となり、
吉安や高定は佐伯藩を去っています。
藩政は家老らによって運営されますが、
その主導権争いで藩政は混乱。
高直も35歳で死去しました。
「4代毛利高重墓(竹林院殿)」。
4代藩主毛利高重の墓。
3代高直の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
不正を働いた家老らを罷免させる等、
藩政の混乱を抑えようとしていますが、
天和2年(1682)に臼杵藩主の宴会に招かれ、
その際中に急死したとされます。
「5代毛利高久墓(南昌院殿)」。
5代藩主毛利高久の墓。
森藩3代久留島通清の三男として生まれ、
4代高重の急死により末期養子となり、
家督を相続して5代藩主となりました。
盛岡藩4代南部行信の五女を正室としますが、
折り合いが悪く不仲だったようで、
逃げられて離婚に至っています。
17年の治世の後に隠居しており、
16年の余生佐伯で過ごして死去。
「6代毛利高慶墓(源林院殿)」。
6代藩主毛利高慶の墓。
森藩3久留島通清の五男に生まれ、
兄の5代高久の養嫡子となっており、
高久の隠居に伴い家督を相続。
人材育成や法整備、殖産興業推進等、
様々な藩政改革に成功しており、
中興の名君と称されています。
42年の治世の後に隠居しますが、
翌年の寛保3年(1743)に死去。
「7代毛利高丘墓(蘭陵院殿)」。
7代藩主毛利高丘の墓。
6代高慶の長男毛利高通の長男で、
病弱な父高通は廃嫡されていた為、
高慶の次男毛利高能が嫡子となりますが、
高能が病死した為に嫡孫となります。
祖父高慶の隠居により家督を相続。
治世では天災が相次いで発生し、
領民が他国への逃散する等多難を極め、
その解決も見ぬまま死去しました。
「8代毛利高標墓(寛竜院殿)」。
8代藩主毛利高標の墓。
7代高丘の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
天災や城下の大火で財政は困窮した為、
倹約令や藩士の知行半減、藩札発行で、
藩財政を回復させています。
更に文武を奨励して藩校四教堂を設立。
佐伯文庫も開設して書画が集められ、
大きな治績を残しました。
享和元年(1801)、死去。
「9代毛利高誠墓(寛洪院殿)」。
9代藩主毛利高誠の墓。
8代高標の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
糾府、米金府、勘定府の三府を開設する等、
積極的な藩政改革を進めましたが、
大規模な百姓一揆が発生。
その鎮静を見届けてから隠居しています。
18年の余生の後に文政12年(1829)に死去。
「10代毛利高翰墓」。
10代藩主毛利高翰の墓。
9代高誠の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
文教政策に尽力しており、
文化面で藩は隆盛していますが、
藩の財政面は火の車だったようです。
財政再建の為に新田開発、治水工事、
殖産興業政策等の改革を推進。
天保3年(1832)に病を理由に隠居し、
嘉永5年(1852)に死去しました。
「11代毛利高泰墓(泰雲院殿:左)」、
「歴代之墖(右)」。
11代藩主毛利高泰の墓と、
12代藩主毛利高謙以降の墓。
高泰は10代高翰の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
産物方を設置して専売制を敷き、
海産物の流通統制を行っています。
幕末期に海防の重要性が叫ばれると、
西洋式の軍制を導入して、
砲術訓練や大砲鋳造を行いました。
文久2年に隠居しており、
維新後の明治2年に死去しています。
高謙は11代高泰の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
軍備の近代化を行った他にも、
朝廷工作を行う等時節を読んでおり、
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、
いちはやく新政府に恭順しています。
明治9年に39歳で死去。
※この記事は再訪して書き直したもので、
当時は個人の墓を撮影しておらず、
墓所全体の写真を掲載しただけだった為、
2025年に再訪して記事を再構築しています。
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