大分県佐伯市 養賢寺/佐伯藩毛利家墓所

佐伯城三ノ丸櫓門より北へ向かう道は、
歴史と文学の道」と名付けられています。


薬医門」。
佐伯藩家老土屋家の屋敷跡にある薬医門
城門が移築されたと書かれていますが、
その出典が見つけられない。
初めから家老家正門でも不思議ではないし、
城門が移築されたとしてもおかしくない。
現在誰が住んでいるかはわかりませんが、
家は新しく建て替えられています。


矢野龍渓生家跡」。
薬医門の向かいにある矢野龍渓の生家跡。
矢野は佐伯藩が生んだ明治のマルチ人間で、
幕末期には文武共に優れた才能を見せ、
明治期には慶應義塾分校の校長
大蔵省官僚郵便報知新聞社社長
政治家政治小説家ジャーナリスト
侍従公使随筆家など、
多彩な才能を発揮しています。


佐伯藩三泉の一 啞泉」。
8代藩主毛利高標の侍医今泉元甫は、
当時、飲水に困っていた佐伯庶民の為、
私財を投じて3つの井戸を掘りました。
庶民らはこれらの井戸を「三義井」と呼び、
今泉の義心に感謝したそうです。
この井戸はそのひとつ「啞泉」。
古民家にあり現在は喫茶店となっています。


佐伯藩三泉の一 安井」。
こちらも三義井のひとつ「安井」。
もうひとつ「甘泉」があるのですが、
離れた場所だったので行きませんでした。


山際通り」。
武家屋敷が並ぶ山際通りに入ります。


国木田独歩
佐伯の春先づ城山に来り」のマンホール。


国木田独歩館」。
重臣坂本家の屋敷で当時の当主坂本永年は、
国木田独歩が勤めた鶴谷学館の館長。
独歩と弟の収二が下宿をしていました。

山際通りを進んだ先は養賢寺
佐伯毛利家の菩提寺で大きなお寺でしたが、
修行寺のため拝観はお断り」との事。
外観を写真に撮ったつもりでしたが、
ボケてしまってUPできません。

養賢寺の墓所より裏手にまわり、
佐伯毛利家の墓所へ。


佐伯毛利家墓所」。
門には貫木がされていますが、
それを抜いて入っても良いようです。
お墓参りが終わった後は、
ちゃんと元に戻しておきましょう。


・・・で、墓域に入ってはみましたが、
誰が誰の墓かわからない。
藩主家墓所の多くはどの藩主の墓か標柱や、
墓所の配置図などが置かれていますが、
そういう類のものは何にもない。
墓石に刻まれている戒名、官位、享年など、
しっかり調べれば良いのですが、
それ程の時間も無かった為に断念。
全12代の藩主の墓があるようです。

三ノ丸櫓門前駐車場のガイドさんによると、
佐伯市は(さいきし)と読みますが、
昔は「さえきし」と言ったらしい。
これは旧陸軍の基地があった関係で、
広島の佐伯と同音となるために、
大分の佐伯は(さいき)と変えられたという。
つまり「さいきはん」と表記されますが、
実際は「さえきはん」だったとの事。

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