大分県日田市 廣瀬淡窓関連史跡

日田の城下町である豆田町で、
廣瀬淡窓関連の史跡を巡ります。


豆田町の街並み」。
御用商が軒を連ねていた城下町は、
当時の建物が状態よく保存されており、
観光名所として雑貨屋になっていたり、
蕎麦屋になっていたりと、
訪れる人達を楽しませてくれています。


廣瀬資料館(廣瀬淡窓旧宅)」。
廣瀬家や所縁の品や書物を展示する資料館。
御用商博多屋北家屋敷だった建物で、
淡窓は博多屋の長男として生まれました。
武田家家臣広瀬郷左衛門の弟広瀬正直が、
広瀬家の先祖とされており、
博多で商売をしていたようです。
その後に初代廣瀬五左衛門が拠点を移し、
堺屋を称して日田で商売を始めて、
のちに博多屋と改号したとのこと。


廣瀬淡窓旧宅南家(広瀬久兵衛隠宅)」。
資料館向いは南家という博多屋の建物で、
その路地を抜けるとある弟久兵衛の隠居宅。
久兵衛は淡窓の代わりに博多屋を継ぎ、
淡窓の私塾を支援したという。
淡窓は度々久兵衛を訪ねていたようで、
ここで花見も行っていたらしい。


長福寺」。
国重文に認定されている浄土真宗の寺院。
淡窓は幼少の頃より聡明で、
松下筑陰亀井昭陽に師事しましたが、
大病を患って家業は弟久兵衛に継がせ、
私塾を開いて教育者としての道を進み、
長福寺の学寮を借用しました。


桂林荘公園」。
長福寺から南家の土蔵に塾を移したあと、
借家を借りてそこに移り、
塾名を「成章舎」とした後、
塾生が増えた為にここに塾舎を新築。
これが「咸宜園」の前身「桂林荘」で、
現在は跡地が公園として整備されています。


廣瀬淡窓像」と「休道の詩碑」。
桂林荘公園の一角にある淡窓像と詩碑。

休道の詩
休道他郷多苦辛
  道うことを休めよ 他郷苦辛多しと
同袍有友自相親

  同袍友有り 自ずから相親しむ
柴扉暁出霜如雪

  柴扉 暁に出れば 霜雪の如し
君汲川流我拾薪

  君は川流を汲め 我は薪を拾わん
訳:故郷を離れ学問を続けることが辛いと
  嘆くのはやめよ。
  綿入れを貸しあう同胞は、

  お互いに親しみ励まし合って、
  学問修養につとめているではないか。
  早起きして柴の扉を開いて出れば、

  霜が雪のように降りている。
  君は川で水を汲んできなさい、

  私は薪を拾ってこよう。

詩吟などでよく知られる七言絶句ですが、
寮生の苦学さがわかると共に、
淡窓の人柄がわかりますね。
桂林荘は10年程で堀田村に移転し、
咸宜園と名を変えて発展しています。

■関連記事■
大分県日田市 咸宜園跡
 廣瀬淡窓が開いた日本最大の私塾。
大分県日田市 廣瀬淡窓墓所
 廣瀬淡窓の墓所「長生園」。
大分県日田市 日田代官所跡
 西国筋郡代支配の代官所。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です