廣瀬淡窓の墓所は、
日田市中城町にある長生園にあります。
「長生園」。
生家の博多屋と咸宜園の中間のこの場所を、
淡窓は生前より墓所として定めていました。
長生園は淡窓の弟廣瀬三右衛門の別邸で、
別邸を引き払って墓所と定められた後も、
同様に長生園と呼ばれています。
「廣瀬家墓所」。
淡窓の他、咸宜園2代塾主廣瀬旭荘や、
3代廣瀬青邨、4代廣瀬林外等の墓が、
それぞれの夫人らと共に並んでいます。
「文玄廣瀬先生之墓」。
中央の墓石が廣瀬淡窓の墓。
文玄は弟子達によって贈られた諡です。
安政3年に咸宜園の秋風庵で死去し、
生前の遺言どおりこの地に葬られました。
「文靖廣瀬先生之墓」。
正面に木が生えている廣瀬林外の墓。
林外は4代目の咸宜園塾主で、
2代旭荘の子だった人物。
文久3年から明治4年の激動の時代に、
塾主として咸宜園を経営しました。
「文敏廣瀬先生之墓」
林外の墓の隣は2代塾主広瀬旭荘の墓。
旭荘は淡窓の末弟で、
攘夷志士達とも交友があったらしい。
「文通廣瀬先生之墓(左)」、
「文圓廣瀬先生之墓(右)」。
3代廣瀬青邨の墓と8代廣瀬濠田の墓。
青邨は咸宜園の門弟でしたが、
淡窓の養子となっており、
旭荘より譲られて3代目となっています。
濠田は青邨の子で新政府に出仕しましたが、
青邨の死後に日田に帰ったようで、
日田で教英中学校校長に就任。
明治18年より咸宜園を主宰し、
8代目の塾主となっています。
「文玄先生之碑」。
淡窓が生前自ら作った文を、
旭荘が謹書して碑石に刻ませたもの。
「我が志を知らんと欲すれば、
我が遺書を視よ」
と末尾に記されています。
柵がしてあるのはなんででしょうね?
■関連記事■
・大分県日田市 咸宜園跡
廣瀬淡窓が開いた日本最大の私塾。
・大分県日田市 廣瀬淡窓関連史跡
日田城下町の淡窓関連史跡。
・大分県日出町 松屋寺/帆足萬里墓所
豊後三賢人のひとり帆足萬里。