福岡県福岡市 淨満寺/亀井南冥 昭陽墓所

浄満寺は中央区地行にある真宗本願寺派寺院。
天正元年(1573)に初代住職浄心が開基し、
寛永12年(1635)に西本願寺13世良如上人が、
寺号を与えて木佛を授けたとされます。
初めは糟屋郡にあったようですが、
承応3年(1654)に大工町(現大手門)に移転し、
更に寛文11年(1671)に現在地に移転しました。


山門」。
切妻造本瓦葺四脚門山門
寛文8年に天台宗現光院が焼失し、
後に源光院として再建されましたが、
その際に焼け残った山門が、
浄満寺に移譲されたと推定されています。


本堂」。
前本堂は文政8年(1825)の再建とされ、
200年近く現存していましたが、
平成18年の福岡県西方沖地震で被災し、
やむなく解体して平成22年に再建。
これが現在の本堂となっています。

浄満寺は亀井南冥の墓所として知られます。

亀井家墓所」。
亀井南冥は医師で儒学者だった人物で、
西学問所の祭酒を務めていました。
その息子亀井昭陽は父に勝る儒学者として、
亀門学」を大成させています。


白髪書童南冥亀先生之墓(左)」、
貞徽信信尼之墓(右)」。
亀井南冥の墓と南冥の妻の墓。
南冥は姫浜の村医亀井聴因の長男に生まれ、
父の許で医学を学んだ後に、
蓮池大潮元皓文学音韻学を学び、
京都永富独嘯庵を師事して頭角を現し、
独嘯庵門下の三傑のひとりと称されました。
帰国後は医業に従事する傍ら私塾を開き、
やがてその名声を聞いた藩が儒医に採用。
天明4年(1784)には藩主黒田治之の遺言で、
西学問稽古所甘棠館の祭酒に就任しています。
同年に志賀島金印が発見されると、
これをいち早く研究調査しました。
寛政異学の禁朱子学以外が禁止されると、
その影響から失脚して禁足処分となり、
火災の影響もあって甘棠館は廃止。
晩年は息子昭陽が再開した亀井塾で、
門下の指導にあたっています。
しかし文化11年(1814)に自宅が火災となり、
猛火の中で焼死しました。


昭陽先生之墓(左)」、
燁桂信尼之墓(右)」。
亀井昭陽の墓と昭陽の妻の墓。
昭陽は南冥の長男として生まれ、
父の友人役藍泉に学んで知見を高め、
若くして学識を称えられています。
徂徠学を基本にして朱子学を取り入れ、
「亀門学」を発展させるに至りました。
再建した私塾「亀井塾」で多くの門下を教え、
広瀬淡窓平野國臣高場乱など、
多くの逸材を輩出しています。


少琹女史墓(右)」、
雷首山人之墓(左)」。
昭陽の長女亀井少琹の墓と、
その夫亀井雷首の墓。
少琹は父の手ほどきで陽明学を学び、
孝経素読詩作も行う秀才でしたが、
19歳で父の書生三苫源吾を婿に迎えます。
源吾は亀井雷首と改称して医師となり、
少琹は妻としてこれを支えました。
やがて27歳で女児を生んで育てますが、
僅か5歳で早逝してしまいます。
少琹は娘の死の悲しみを紛らわすように、
書画に打ち込むようになり、
これが評判となって人気となっています。
安政4年、死去。
雷首は昭陽にその学才を認められ、
娘婿となって武士となりましたが、
医業に専念して身分関わりなく診療し、
貧しい者にも惜しみなく薬を与えたという。
その医師の腕も評判だったようで、
各地の名士の主治医となっており、
その合間に妻と儒学を子弟に教えています。
嘉永5年、死去。

この他に南冥の父母、南冥次男夫婦、三男。
昭陽の長男夫婦の墓がありました。

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