日田の咸宜園は日本最大規模の私塾で、
全国各地より入門者が殺到し、
最盛期には約5千人もの門下が学びました。
咸宜園の著名な門下生としては、
蛮社の獄で弾圧された蘭学者高野長英、
シーボルトにも学んだ岩国藩の藩医岡研介、
日本陸軍の基礎を築いた大村益次郎、
日本最初期の写真家上野彦馬、
書家長三州らの他、
新政府で県令や知事になった者多数、
実業家や教育者も多く輩出しています。
咸宜園は御用商博多屋の長男廣瀬淡窓が、
家業を継ぐ事を諦めて私塾を開き、
全国的に知られるようになり、
門下が増えるごとに移転を繰り返し、
広い敷地を有する学舎となったもの。
入門時に学歴、年齢、身分を問わず、
すべての門下生を平等に教育。
月初に学力を評価する制度月旦評を設け、
その成績を公表していました。
また規則正しい生活を実践させる規約や、
生徒に塾や寮を運営させる職任制度を作り、
社会性を身に付ける教育も行われています。
「史跡 咸宜園址」。
咸宜園跡は国の指定史跡となっており、
現存する建物が保存されている他、
咸宜園教育研究センターを開設して、
咸宜園や淡窓、門下生の調査研究を行い、
来園者への案内解説を行っています。
「秋風庵」。
現存する咸宜園の建物のひとつで、
淡窓の書斎件住居に使用されていたもの。
元々は淡窓の伯父の廣瀬月化の隠居宅で、
手狭になった前身の桂林荘からここに移り、
徐々に周辺に建物を増やして、
最終的に咸宜園が構成されました。
「桜塚」。
淡窓の叔父で廣瀬家4代廣瀬月化の歌碑。
「末世とは 何ていうたそ はつさくら」
月化は隠居後に風雅の道に入り、
日田俳句の中心的存在となった人物でした。
「遠思楼」。
現存する咸宜園の建物のひとつ。
元々一般商家の茶室だったものですが、
嘉永2年に現在の位置に移築されて、
咸宜園の書庫となった建物。
1階が書庫として使われ、
2階は書斎となってました。
商家の茶室が隠居宅として建てられたのか、
遠思楼という名に似合った風雅な建物。
一時期中城町へ移されていましたが、
昭和28年に現在地に移築復元されました。
「休道之詩碑」。
淡窓の門下生の苦学を詠った詩ですが、
最後の行の、
「君は川流を汲め、我は薪を拾わん」は、
門下生に水を汲んで来い、
自分は薪を拾いに行くと記されています。
日田は水郷で川は近くにあるのですが、
薪は遠くの林まで行く必要があり、
皆で頑張ろうとしつつ、
実は自分の方が負担を多くしています。
「書蔵庫」。
明治23年に建てられた書蔵庫。
この建物も咸宜園の施設でしたが、
歳晩期のものであるとのこと。
建設する為に東塾塾舎が取り壊されました。
現存する建物は3つと少ないですが、
その敷地はかなり広かったようです。
流石は最大級の私塾といった感じですが、
これは博多屋廣瀬家の支援無しでは、
運営は難しかったでしょう。
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