5代に渡り関東の覇者だった後北条家。
豊臣秀吉の小田原征伐により、
前当主北条氏政と一族の北条氏照は切腹し、
後北条家は滅びましたが、
5代当主であった北条氏直は助命され、
高野山への追放処分となっています。
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当主の切腹によって将兵が助命されたことや、
徳川家康の娘婿であったことが考慮され、
氏直は後に1万石を与えられ後北条家を再興。
叔父北条氏規もり和平に尽力していた為、
同じく許されました。
氏直はその後嫡子無く死去してしまいますが、
氏規の子北条氏盛が狭山藩を立藩し、
かつて関東の大大名であった後北条家は、
関西の小大名として続いています。
「狭山池」。
飛鳥時代に西除川と三津屋川を堰き止め、
ダム池として造設されたもの。
古事記や日本書紀にも記されました。
奈良時代には東大寺大仏建立した行基が、
鎌倉時代にはその東大寺を再建した重源が、
安土桃山時代には片桐且元が改修。
非常に由緒ある池です。
「狭山藩陣屋跡」。
狭山藩は2代藩主北条氏信の頃に、
狭山池の東畔に陣屋を建設。
狭山陣屋は碑のある上屋敷の他にも、
南側に下屋敷が設けられていました。
下屋敷跡は平成12年閉鎖のさやま遊園の跡地。
現在はさやか公園となっています。
狭山市より堺市へ。
堺区神明町の西本願寺堺別院に、
移築された陣屋表門が残っています。
「狭山藩御成門」。
西本願寺堺別院は堺県庁が置かれた場所で、
廃藩置県後に堺別院は境内全てを献上し、
宿院町に新しく寺院を建てて移転。
※後に返還。
その関係もあってか、
狭山陣屋の表門はここに移築されました。
幕末の狭山藩は小藩特有の財政難に陥り、
特産物の氷豆腐の専売化や人材登用を行い、
財政の好転を計っていますが、
成功には至っていません。
文久3年には天誅組の吉村寅太郎らが、
前藩主北条氏燕に挙兵を求めて面会を要求。
氏燕は病気を理由に面会を拒み、
国家老朝比奈縫殿が対応しています。
朝比奈は甲冑十領、銃十五筋、
ゲベール銃十挺、米塩若干を差し出し、
親征の際には挙兵に加わると回答しますが、
その後の天誅組追討では狭山藩も出兵。
この天誅組追討の出兵の他、
大坂城警備や天領の一揆鎮圧など、
相次ぐ出兵で逼迫した財政は破綻しました。
明治2年に北条氏恭は藩知事を辞任。
狭山藩は政府直轄の堺県に編入されています。
【狭山藩】
藩庁:狭山陣屋
藩主家:後北条家
分類:1万1000石、外様大名
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