凌霜隊は会津戦争後に猪苗代で謹慎。
後に郡上藩預かりとなって、
故郷の郡上へ戻ってきました。
郡上藩としては元藩士ではありますが、
この処置にしくじるわけにはいきません。
とはいえ多くの親族もいることですし、
死罪とする事は躊躇され、
彼らを投獄することに決定。
赤谷揚屋と呼ばれる牢房に入獄されると、
環境か悪く病人が多発したという。
これに慈恩護国寺の住職らが非道を訴え、
藩はこの訴えを考慮した結果、
元凌霜隊士らは長敬寺に移されています。
「慈恩護国寺」。
この寺の住職が元凌霜隊士らの為に、
藩に非道を訴えたのですが、
実はこの寺は収監された赤谷揚屋跡の隣。
それで劣悪な環境を知っていたわけ。
赤谷揚屋の上側にありますので、
境内から中の様子が覗けたのでしょう。
「本堂」。
本堂は当時のものではありません。
明治26年の豪雨により、
寺の裏山が土砂崩れを起こし、
土砂が本堂を飲み込んで倒壊。
多くの死傷者を出したという。
この災害は慈恩寺崩れと呼ばれていますが、
上記のように赤谷揚屋跡は寺の下側で、
跡地も飲み込まれてしまい、
全く地形が変わってしまったようです。
「慈恩護国寺墓地」。
遠藤家、金森家などの藩主家の墓所や、
家老家の墓が並んでいます。
上方の3つの建屋付きの墓は遠藤家のもの。
「凌霜隊関係墓所」。
後方の2列は江戸家老朝比奈家のもの。
前方右手は速水家(速水小三郎関連?)で、
前方左手は藩校潜竜館教授杉岡暾桑と、
初代郡上郡長のもの。
「舊郡上藩大夫鈴木家霊墳」。
国家老鈴木家の墓所。
国家老鈴木兵左衛門は藩政を取り仕切り、
郡上藩を新政府恭順に向かわせています。
「荎草園」。
慈恩護国寺の奥庭。
見事な室町様式の庭園です。
さて、慈恩護国寺の外壁に、
赤谷揚屋跡のプレートがあるらしいので、
行ってみたら・・・・・
あれ?無い。
なんだか剥がれた跡があるだけ。
住職曰く台風で剥がれてしまったという。
プレートは教育委員会が作り変えると、
持って帰ってしまったとのこと。
赤谷揚屋はこの壁の向かいにあって、
囚人達の拷問の叫び声が、
境内にも聞こえていたのだそうです。
本来ならこのプレートがあったはず。
記事がUPする頃には、
新しいのが付いているかな?
慈恩護国寺を出て、
城を挟んて反対側の長敬寺へ。
「長敬寺本堂」。
元凌霜隊士らが移された寺院。
新しそうですがとても立派な寺ですので、
当時もこの規模だったでしょう。
軽トラが沢山止まっていて、
なにやら忙しそう。
写真のみ撮って退散しました。
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郡上藩青山家の居城跡。