郡上八幡城は、斎藤龍興家臣遠藤盛数の築いた城で、
盛数は織田信長の美濃征伐の最中に死去し、
跡を継いだ遠藤慶隆は、
若干13歳で八幡城の主となっています。
斎藤家が滅びると慶隆は織田家家臣となり、
その後は織田信孝に味方して羽柴秀吉に対抗。
信孝が秀吉に降伏すると慶隆も降伏しますが、
本領を没収されて八幡城も奪われました。
代わって八幡城の城主となったのが、
稲葉一鉄の次男稲葉貞通。
貞通は与えられた八幡城の大改修を行い、
八幡城は近世城郭に生まれ変わります。
関ケ原の戦いでは、貞通は西軍に加担。
慶隆は家康に八幡城奪還を願って許され、
貞通が留守の八幡城を攻撃し、激戦の末に城方が降伏。
城を取り戻した慶隆には八幡城を与えられ、
郡上郡2万7000石が与えられました。
その後、郡上藩主として遠藤家は5代続きますが、
5代藩主遠藤常久は7歳で継嗣無く死去。
本来は無嫡改易となるはずでしたが、
将軍徳川綱吉の側室お伝の方の甥白須数馬を養子とし、
1万石に減封ながら遠藤家の再興が認められました。
その後、遠藤家は三上藩を立藩しています。
郡上藩には井上正任が入封し、次代井上正岑の代に、
丹波亀山藩に転封。代わって金森頼時が入封しました。
しかし、金森頼錦の代に石徹白騒動、郡上一揆が発生。
この責任を問われて金森家は改易となります。
その後、宮津藩から青山幸道が4万8000石で入封し、
以後は青山家が藩主家として定着しています。
「八幡城登口」。
郡上八幡城は、八幡山に築かれた平山城で、
山頂の本丸の他に、山麓に二ノ丸、三ノ丸を配置しました。
三ノ丸跡には、浄土真宗大谷派寺院安養寺が移転しており、
その巨大な寺院が目を引きます。
坂を上がって城山公園へ。
「山内一豊と妻の像」。
「内助の功」の代名詞山内一豊の正室見性院は、
八幡城を築いた遠藤盛数の娘という説があります。
山内一豊の正室見性院は謎が多く出自が諸説あり、
名前も千代ではなく「まつ」だったという説や、
安藤守就の娘だったとういう説、
不破重則の妹だったという話もある。
大河「功名が辻」では千代として描かれ、
主人公として仲間由紀恵が演じていました。
彼女は持参金で一豊の欲しがっていた名馬を買い与え、
一豊の乗ったその名馬が信長の目に留まり、
出世の糸口となったという逸話や、
石田三成に味方するよう即した大阪方の書状を、
開封せずに文箱に入れてこよりで封をして一豊に送り、
別の手紙で開封せずに徳川家康にみせるようにと書き、
一豊はその通りに家康の文箱を渡し、
文箱を見た家康は、三成の動きを知ると共に、
一豊の忠義を喜び、関ケ原本戦での活躍無しに、
土佐一国を一豊に与えたという。
見性院が盛数の娘ではない可能性もあるのですが、
このように巨大な銅像を建立して、
後に盛数の娘ではないという文献でも出てきたら、
一体どうするのでしょうかね?
大河ドラマは時に地方の町を暴走させます・・。
「岸剣神社」。
先ほどの銅像のある広場と共に二ノ丸だった場所で、
政庁と藩主住居の二ノ丸御殿が建てられていました。
江戸時代初期。郡上で日照りが続いたため、
宝剣を吉田川で洗って雨ごいをすると、
すぐに雨が降り出しますが、その雨は止まず、
豪雨となって宝剣は流されてしまう。
数日後、吉田川で宝剣が見つかった為、
当時の藩主遠藤慶隆はこれを祀り、
吉田川の川岸に社殿を建立し、
岸剣神社と名付けられたようです。
※川岸の宝剣・・そのままですねぇ・・。
明治19年に二ノ丸跡に移築されました。
「八幡城本丸跡」。
岸剣神社本殿の裏手にひっそりとあります。
本丸跡となっていますが、二ノ丸跡ですね。
御殿があった為に本丸と表記したのでしょう。
「二の郭跡」。
石段を下がった場所がニの郭跡。
郭といってもそれほど大きなスペースではなく、
幅広の通路といった感じ。馬場だったのかも?
「凌霜隊之碑」。
幕末の郡上藩といえば凌霜隊でしょう。
新政府への恭順を決めた郡上藩でしたが、
譜代藩として徳川家恩顧に報いようとする藩士達は、
脱藩して凌霜隊を結成します。
凌霜隊は旧幕府軍と合流し、
小山、宇都宮を転戦して、会津戦争に参加。
スペンサー銃を装備した凌霜隊は、
鶴ヶ城西出丸の守備を担当していますが、
会津藩と共に降伏しました。
そして山頂の本丸跡へ。
車で登ったのですが、歩いて登る観光客も多く、
車の方が少ないくらい。
みんな元気ですね。
「首洗いの井戸」。
駐車場近くにある浅井戸で、
首実験の際に首を洗っていたと伝わる井戸。
野面積みが苔生して良い感じです。
「道ハ一筋ナリ」碑。
凌霜隊の略記が刻まれた石碑。
碑の「道ハ一筋ナリ」とは、
凌霜隊参謀速水小三郎の日記からの抜粋。
凌霜隊は猪苗代での謹慎後、郡上藩送りとなります。
藩は隊士らを罪人として「赤谷の揚屋」に収監。
衛生状態が悪く病気になる者も多くいた為、
何度も場所の変更を求めましたが却下されました。
この状況を慈恩禅寺の住職ら城下寺僧が藩に嘆願し、
隊士たちは長敬寺に移されています。
その後、隊士らは自宅謹慎を経て赦免されますが、
賊軍であった隊士らに対して周囲の態度は冷たく、
隊士らの多くは郡上を離れたとのこと。
凌霜隊は藩の密命で旧幕軍に参加したと、
ネットで書かれていたりしていますが、
それはちょっと勘繰りすぎでしょうね。
「郡上八幡城天守閣」。
郡上八幡城は、廃城令によって取り壊され、
石垣を残すのみとなっていましたが、
昭和8年に大垣城を参考にして天守を再建。
※江戸期には既に天守はありませんでしたし、
そもそも天守自体建てられなかったという説もある。
これは国内で最も古い木造再建天守となっており、
既に86年が経過しています。歴史的建造物ですね。
幕末の郡上藩6代藩主青山幸哉は、
篠山藩4代藩主青山忠裕の七男として生まれ、
蘭学を志して篠山藩の蘭医足立櫟亭に師事。
その後、郡上藩主青山幸礼の養嫡子となり、
幸礼の死去に伴い郡上藩主となっています。
郡上藩も幕末期には財政が困窮していた為、
奏者番兼寺社奉行に就任しますが、
辞退して財政再建に取り掛かりました。
その傍ら西洋度量衡を研究した「西洋度量考」を著述。
メートル法を始めて日本に紹介しています。
その後、再び奏者番兼寺社奉行に任命され、
また神奈川警備や摂津警備も命じられて、
出費が増加して財政はさらに悪化しました。
幸哉は文久3年に死去。
藩主ではなく庶民に生まれていれば、
もっと著作を出していたかもしれませんね。
幸哉の跡を継いだ最後の藩主青山幸宜は僅か9歳。
幕末の動乱に対応することが出来ず、
他藩の動向に合わせるように新政府に恭順。
この動きを良しとしない若い佐幕派藩士らが、
脱藩して凌霜隊を結成するわけです。
郡上八幡城は模擬天守と揶揄されていますが、
これはこれで歴史の一部でしょう。
城跡自体の雰囲気も良く、整備も行き届いています。
それよりも良かったのが城下町。
昔の雰囲気を残しつつ観光地化されており、
街を歩くのも楽しそうでした。
【郡上藩】
藩庁:郡上城
藩主家:青山家
分類:4万8000石、譜代大名
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見性院は内助の功で、土佐一国を夫に取らせました。
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