福井県大野市 大野城②

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大野城本丸跡亀山公園として整備されています。
大野城は亀山という独立丘陵に築かれた平山城で、
織田信長の家臣金森長近が築城した城。
江戸時代の大野城は大野藩の藩庁となりました。

江戸初期には結城秀康の三男、五男、六男が、
それぞれ別家で大野藩主として入れ替わり、
※三男松平直政、五男松平直基、六男松平直良。
その後、土井利房が4万石で入封して以降、
土井家が8代続いて明治維新を迎えています。


西登り口」。
7代藩主土井利忠を祀る柳廼社裏手の登城口。
ここには「不明門」と呼ばれる切妻門があったようで、
現在は市内の真乗寺山門として移築されています。
不明門(あかずのもん)というからには、
普段は閉じられていたのでしょう。
※他に3か所の登り口があります。


本丸南側の曲輪。
西登り口より登城すると、
本丸南側の曲輪の辿り着きます。
ここには東屋と土井利忠の銅像がありました。
東屋には幕末大野藩の説明板が設置されており、
結構詳しく書かれていて、
読んでいると丁度良い休憩になります。


土井利忠公像」。
大野藩7代藩主土井利忠の銅像。
困窮にあえぐ大野藩の財政再建に成功した他、
洋学を推奨して洋学館済生病院を開設。
軍制洋式化などを進めた名君として知られています。

そして本丸跡へ。

お福池」。
天守の傍らにある池。
築城主金森長近の正室お福の方の名が付いており、
山頂にも拘わらず絶えす地下水が湧くらしい。
金魚も泳いでいます。


天守」。
大野城の天守は2重3階の大天守に、
小天守と付櫓が連結した複合連結式だったようですが、
江戸中期に焼失。
その後は再建される事なく廃城を迎えていますが、
昭和43年に元士族の萩原貞の寄附により、
絵図や同時期築城の現存天守を見本として、
鉄筋コンクリート構造によって再建されています。


越前大野城」碑。
同名の城が筑前(福岡県)にもありましたが、
筑前の方は天智天皇の時代の古代山城で、
福岡県大野城市の名称の由来となっている城。
こちらの大野城とは全く時期が違いますので、
「越前」を付ける事も無いような気もしますね。


金森長近之像」。
大野城を築城した金森長近は、
織田信長の父織田信秀の代より織田家に仕え、
美濃攻略長篠の戦いで戦功を挙げ、
越前の一向一揆を鎮圧した功績によって、
大野を与えられて大野城を築城しました。
本能寺の変では、嫡男の金森長則も討死し、
これを悲しんで剃髪しています。
賤ケ岳の戦いでは柴田勝家に味方しますが、
前田利家と共に戦わずに撤退して羽柴秀吉に降伏。
秀吉の傘下となり小牧長久手の戦い越中征伐で活躍、
飛騨高山に加増転封されて大野城を手放しました。
関ケ原の戦いでは徳川家康に味方して本領が安堵され、
以後、金森家が飛騨高山藩主として6代続き、
その後、6代金森頼時上山藩、そして郡上藩に転封。
2代続いて8代(郡上藩2代)藩主金森頼錦の代に、
郡上一揆石徹白騒動などを起こして改易となり、
以後、子孫は旗本として存続しています。

幕末の大野藩は名君である7代土井利忠によって、
財政軍制教育医療と改革が推し進められ、
何れもある程度の成果を得ています。
その後、利忠は文久2年に隠居。
次代の土井利恒もその改革を引き継ぎ、
改革を主導した内山隆佐軍事惣督に任じますが、
隆佐は元治元年6月に病死してしまいます。

この年の暮れ。
水戸より天狗党が西上して大野藩領に迫りますが、
軍事を取り仕切った内山隆佐は死去して間もなく、
藩主利恒も参勤で江戸に滞在中。
留守を守る重臣たちでは事態の適切な対応が取れず、
天狗党の進路7村を焼き払うという愚策を犯し、
越前勝山藩の援軍と共に天狗党と対峙しました。
結局は町年寄を使者に立てて天狗党と交渉し、
城下を通らない事を条件に軍資金を差し出しています。
村を焼き払った事は全くの無駄であり、
冬場に家を失った領民達は藩と土井家を恨み、
現在も遺恨が残っているらしい。
この一件は輝かしい幕末大野藩史に影を落としました。

大野藩は鳥羽伏見の戦い後に新政府に恭順。
利恒は新政府より箱館裁判所副総督に任命され、
洋式軍備で武装した藩兵166名と共に箱館へ向かい、
箱館戦争に参加して11名の戦死者を出しています。

【大野藩】
藩庁:大野城
藩主家:利房流土井家(越前土井家)
分類:4万石、譜代大名

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