三国湊は九頭竜川河口にある港町で、
古来より発達していたようです。
中世には荘園の年貢積出港であった他、
三津七湊のひとつとして日本海交易の拠点として栄え、
近世には北前船の寄港地ともされました。
「三国湊(九頭竜川河口)」。
現在は西岸の福井臨海工業地帯と共に、
福井港と改称されていますが、
旧来の港である東岸は三国港として区別され、
越前がにと甘エビを水揚げる漁港となっています。
坂井市三国町周辺。
今回は三国の港町を上の地図の番号に沿って、
①から南下するように散策してみます。
①「見返り橋」。
町を流れる小川辰巳川に架かる橋で、
この辰巳川が福井藩と丸岡藩の藩境となっています。
福井藩側の上八町に遊郭があり、
遊郭で遊んだ者が見返って名残惜しんだという。
②「地蔵坂」。
見返り橋の越えると地蔵坂と呼ばれる坂があります。
丸岡藩側にも出町という遊郭があり、
この地蔵坂は2つの遊郭を結ぶ道でした。
③「地蔵堂」。
坂を上がった先にある地蔵堂。
地蔵坂はこの地蔵堂に由来しています。
上八町通りより地蔵坂のひとつ南の坂を下る。
④「川口御番所跡」。
正保元年(1644)に福井藩が辰巳川の川端に設置され、
三国湊に出入りする船の監視を行っています。
丸岡藩の出村へ行く船もここに届出を行っており、
三国湊は福井藩の支配するところでした。
⑤「思案橋」。
御番所近くにある辰巳川に架かる橋。
出町遊郭に行こうか行くまいか思案したことから、
その名でよばれた小さな橋。
この先が出町遊郭のあった場所でした。
福井藩に湊を牛耳られていた為に、
出町は遊郭などの歓楽街として発展したようです。
道を南東方向に進んで駅前道りを右折。
今新のT字路に運上会所跡の碑があります。
⑥「運上会所跡」。
はじめ口銭役所として設置され、
万延元年に運上会所に改称されています。
今の税関のようなものでしょう。
T字路を戻って三国湊きたまえ通りへ。
⑦「旧岸名家」。
三国湊で材木商を営んでいた新保屋の建物で、
日和山吟社を創設した岸名昨嚢はここの主人。
昨嚢は松尾芭蕉の高弟である各務支考より文台を預かり、
日和山吟社の初代宗匠となっており、
これより三国は俳句の盛んな町となりました。
建物内は見学できます。
⑧「旧森田銀行本店」。
廻船業を営んでいた森田三郎右衛門は、
北前船の衰退を察知して銀行経営を開始。
森田銀行を設立させて成功していますが、
後に福井銀行に吸収合併されました。
⑨「旧三国大野屋」。
藩財政の逼迫していた幕末の大野藩では、
家老内山良休が財政再建を目指し大野屋を設立。
煙草などの藩特産物を直営で販売し、
全国37ヵ所にその支店を置きました。
この三国大野屋のそのひとつで、
その店舗が現存するのはここだけとのこと。
⑩「横山栄太郎誕生の地」。
横山栄太郎は明治期の電気工学者で、
世界初の実用無線電話の開発者のひとり。
現在は歴史的な古民家の改修などを行い、
町の活性化を行う団体の拠点となっています。
通りを外れて細道を北東方向へ。
民家の玄関先に湊会所跡の碑があります。
「湊会所跡」。
明治3年にここに会所が移されて自治が行われたという。
これは先ほどの運上会所ではないようで、
別に役所があったようですがよくわからない。
運上会所の向かいに代官屋敷があったらしいので、
そこが移ったのかもしれません。
通りに戻ってさらに進み、
男性洋品店のあるところを右に曲がり、
その隣の食堂を左に曲がってすぐの民家へ。
「斯文館跡」。
文久2年に三国湊の豪商らが開設した私塾で
庶民の教育を行ったという(翌年に思誠館に改称)。
医療に携わった多賀谷家の当主や、
滝谷寺の道雅上人が教授したとされ、
これが後の龍翔小学校となり、
現在の坂井市立三国南小学校となっています。
三国湊は古い建物が沢山残っており、
天気の良い日に散策にはとても良い町。
紹介したのはほんの一部で、
元商家や元旅籠、元遊郭の建物が多く、
これを眺めて歩くだけでも楽しい。
出来れば越前がにも食べてみたかったのですが、
これは家族と来た時までのお預けにしときます。
■関連記事■
・福井県福井市 福井城跡
三国湊は福井藩領でした。
・福井県大野市 大野城①/②
大野藩直営の大野屋は三国にもありました。
・福井県坂井市 丸岡城
三国湊の河口側の出町は丸岡藩領。