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本丸跡は亀山公園として整備されています。
大野城は亀山に築かれた平山城で、
織田信長の家臣金森長近が築城。
江戸時代には大野藩の藩庁となりました。
初期には結城秀康の三男、五男、六男が、
それぞれ別家で大野藩主として入れ替わり、
※三男松平直政、五男松平直基、
六男松平直良。
その後は4万石で土井利房が入封して以降、
8代続いて明治維新を迎えています。
「西登り口」。
7代土井利忠を祀る柳廼社の裏手の登城口。
ここは不明門という切妻門だったようで、
市内の真乗寺山門として移築されています。
不明門(あかずのもん)というからには、
普段は閉じられていたのでしょう。
※他に3か所の登り口があります。
本丸南側の曲輪。
西登り口より登城すると、
本丸南側の曲輪の辿り着きます。
ここに東屋と土井利忠の銅像がありました。
東屋には幕末大野藩の説明板が設置され、
結構詳しく書かれています。
「土井利忠公像」。
大野藩7代藩主土井利忠の銅像。
大野藩の財政再建に成功した他、
洋学を推奨して洋学館や済生病院を開設。
名君として知られています。
そして本丸跡へ。
「お福池」。
天守の傍らにある池。
金森長近の正室お福の方の名が付いており、
山頂にも拘わらず絶えす地下水が湧く。
金魚も泳いでいます。
「天守」。
大野城の天守は2重3階の大天守に、
小天守と付櫓が連結する複合連結式天守で、
江戸中期に焼失しており、
その後は再建される事なく廃城。
昭和43年に元士族萩原貞の寄附により、
絵図や同時期築城の現存天守を見本として、
鉄筋コンクリートで再建されました。
「越前大野城」碑。
同名の城が筑前(福岡県)にもありましたが、
筑前の方は天智天皇の時代の古代山城で、
福岡県大野城市の由来となっている城。
こちらの大野城とは時期が違いますので、
越前を付ける事も無い気もしますね。
「金森長近之像」。
大野城を築城した金森長近は、
織田信長の父織田信秀の代より仕え、
美濃攻略や長篠の戦いで戦功を挙げ、
越前の一向一揆を鎮圧した功績によって、
大野を与えられて大野城を築城しました。
本能寺の変では嫡男金森長則も討死し、
これを悲しんで剃髪しています。
賤ケ岳の戦いでは柴田勝家に味方しますが、
前田利家と共に戦わずに撤退。
羽柴秀吉に降伏して配下となり、
小牧長久手の戦いや越中征伐で活躍、
飛騨高山に加増転封されて、
この大野城を手放しました。
関ケ原の戦いでは東軍に与して本領を安堵。
以後は金森家が飛騨高山藩主として続き、
その後に6代金森頼時が上山藩、
そして郡上藩に転封。
2代続いて8代(郡上藩2代)金森頼錦が、
郡上一揆や石徹白騒動等で改易となり、
子孫は旗本として存続しています。
幕末の大野藩は名君7代土井利忠によって、
財政、軍制、教育等の改革が推し進められ、
ある程度の成果を得ています。
その後に利忠は文久2年に隠居。
次代の土井利恒もその改革を引き継ぎ、
内山隆佐を軍事惣督に任じますが、
隆佐は元治元年6月に病死しています。
この年の暮れ。
天狗党が西上して大野藩領に迫りますが、
内山隆佐は死去して間もなく、
藩主利恒も参勤で江戸に滞在中。
留守の者達では事態の適切な対応が取れず、
進路7村を焼き払うという愚策を犯し、
越前勝山藩の援軍と共に、
迫る天狗党と対峙しました。
結局は天狗党と交渉し、
回り道を条件に軍資金を差し出しています。
村を焼き払った事は全くの無駄であり、
家を失った領民達は藩と土井家を恨み、
現在も遺恨が残っているらしい。
これは輝かしい藩史に影を落としました。
大野藩は鳥羽伏見の戦い後に新政府に恭順。
利恒は箱館裁判所副総督に任命され、
洋式武装した藩兵166名と箱館へ向かい、
箱館戦争で11名の戦死者を出しています。
【大野藩】
藩庁:大野城
藩主家:利房流土井家(越前土井家)
分類:4万石、譜代大名
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隣藩。かつては共に福井藩の支藩でした。