吉田松陰の東北遊学

花燃ゆ」で東北遊学が端折られたので、
補足の意味で松陰の東北遊学の事を書きます。

松陰は嘉永3年、
熊本藩士宮部鼎蔵と盛岡浪人江帾五郎の3人で、
東北遊学を計画します。


宮部鼎蔵江帾五郎」。

出発の日を赤穂浪士の討ち入りの日に定め、
松陰は遊学を藩に願い出て許されますが、
過書手形の発行が遅れていしまいます。

過書手形の発行は藩主の捺印が必要な為、
江戸~萩は飛脚で2ヶ月ほどかかる。
松陰は約束を違えることはできぬと、
待ってればいいのに脱藩してしまいます。

※ここで疑問ですが浪人江帾五郎は良いとして、
 熊本藩士である宮部鼎蔵は、
 手形を用意していたのでしょうか?
 藩主が江戸に居たのか?
 それとも初めから持っていたのか?
 調べてもわかりませんでした。

松陰の旅の仲間の宮部鼎蔵は、
後に池田屋事件で殺された肥後勤皇党の重鎮。
もうひとりの仲間江帾五郎は、
後に大蔵省や文部省に出仕した那珂通高
2人とは目的が違うようですが。

江戸を発って水戸に滞在。
松陰は会沢正志斎などを訪問しています。
水戸から白河に行き、
江帾五郎と分かれ会津へ向かう。
実は江帾は仇打ちの為に旅に参加しており、
盛岡藩の内紛で兄を殺されて、
仇の家老田鎖左膳を討つつもり。
その為に白河から奥州街道を北上して、
自藩に戻っていきます。
松陰と宮部は友が大業を成し遂げようと、
一人で旅立つ後ろ姿を見て、
泣いたと云われています。
※ちなみにこの仇討ちは成功せず、
 田鎖が失脚して死去してしまったので、
 藩に復帰して2人よりも長生きしています。

会津では8日間滞。
会津藩士の在井深茂松、高津平蔵、
志賀与三兵衛らに会ったとされており、
八重の桜」で山本覚馬と会っていますが、
そういう記録はありません。
※八重も1歳だったようです。
同じ佐久間象山門下ですので、
江戸では会っているかもしれません。

豪雪の諏訪峠を抜けて新潟へ。
そこから佐渡島に渡り金山を視察します。
新潟に戻って、秋田、広前、青森に至る。


矢立峠では相馬大作事件の顛末を聞いて感激。
松前街道では石のトンネルをくぐり、
※松陰くぐり。
平舘村台場などを視察しています。

仙台城下に入ると、藩校養賢堂を見学。
伊達政宗菩提寺である瑞宝寺も訪問しました。
米沢を経て関東に戻って日光東照宮を訪れ、
その絢爛豪華さを賛辞しています。
足利では最古の学校足利学校を訪問。

利根川を下って江戸へ戻り、
松陰の脱藩旅行は終わります。
藩邸に戻ると、帰国して沙汰を待てとの事。
松陰は萩に戻ることとなります。

・・・大旅行でしたね。
各地には松陰記念碑が至る所にあるようです。
老後はお遍路でもしたいと思ってたのですが、
松陰と同じ道筋を通って、
東北旅行ってのもいいなって思います。
現在の交通機関使っても結構日数掛かりますね。

■関連記事■
松陰の東北遊学①/////////
 松陰の東北遊学の行程。
青森県東津軽郡 吉田松陰東北遊日記碑
 津軽海峡を望む松陰の日記碑。
青森県東津軽郡 松陰くぐり
 松陰がくぐったとされる洞門。
秋田県大館市 相馬大作事件之地
 松陰は地元民に事件の事を聞いています。

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