■小倉新田藩■
小倉藩2代藩主小笠原忠雄が、
実弟小笠原真方に1万石を分与して立藩。
3代まで参勤交代をしていたようで、
江戸屋敷と小倉城下の屋敷を往復しており、
知行地は持っていたと思われますが、
行政は小倉藩に取り仕切られていました。
後に定府大名となって蔵米支給となりますが、
明治2年に千束陣屋を構えて千束藩と改称。… 続きを読む
東京都港区 小倉新田藩上屋敷跡
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■小倉新田藩■
小倉藩2代藩主小笠原忠雄が、
実弟小笠原真方に1万石を分与して立藩。
3代まで参勤交代をしていたようで、
江戸屋敷と小倉城下の屋敷を往復しており、
知行地は持っていたと思われますが、
行政は小倉藩に取り仕切られていました。
後に定府大名となって蔵米支給となりますが、
明治2年に千束陣屋を構えて千束藩と改称。… 続きを読む
小笠原真方は寛文7年(1667)に、
小倉藩2代小笠原忠雄の家督相続の際、
1万石を内分分知されて諸侯に列しました。
新田藩であった為に特定の領地を持たず、
藩主は江戸に定府していたようですが、
初期の藩主は小倉へ戻っていたようです。
※3代までの墓所は小倉の… 続きを読む
開善寺に小笠原貞宗が信濃に中興した寺で、
鎌倉時代後期に四条頼基が創建したもの。
後に府中小笠原宗家が小倉藩に入封すると、
信濃の開善寺と同名の寺を創建。
以後は重臣達の菩提寺として城下で栄え、
小倉戦争では小笠原長行… 続きを読む
小倉新田藩は小倉藩2代藩主小笠原忠雄が、
弟小笠原真方に1万石が分与し立藩。
他の新田藩が江戸定府大名であるのと同じく、
参勤交代を行わない定府大名でした。
はじめは小倉城下の屋敷に藩庁が置かれ、
幕末期は宗家と行動を共にしていますが、
小倉城落城と共に藩庁を失います。
藩主の… 続きを読む