新潟県長岡市 河井継之助邸跡

長岡藩には河井家が3家あり、
河井継之助の出自には諸説ありますが、
牧野家の長岡移封の際に仕官したという。
その河井家の3家は、
河井清左衛門を祖とする50石の本家と、
その弟忠右衛門を祖とする分家120石、
忠左衛門の次男代右衛門の分家120石で、
継之助は代右衛門を祖とする分家でした。
※分家2家は諸役を務めて加増。


河井継之助記念館」。
河井家の跡地は記念館となっており、
ゆかりの品々が展示されているとの事。
訪問時は閉館中でした。


河井継之助邸址」。
記念館の裏手は小さな公園となっており、
跡碑が建てられています。
河井代右衛門家は分家の分家でしたが、
代々当主は役方を務めて家格は上がり、
その河井代右衛門家に生まれた継之助は、
藩校崇徳館に学んだ後に江戸へ遊学。
斎藤拙堂佐久間象山古賀茶渓に師事し、
ペリー来航では藩政改革の建白書を提出し、
これが10代牧野忠雅に受け入れられて、
御目付格評定方随役に任命されています。
しかし門閥家臣らの抵抗によって、
藩政改革は頓挫し2ヶ月で辞職。
再び江戸へ遊学し西国にも遊学し、
備中松山藩山田方谷にも学びました。
11代牧野忠恭京都所司代に就任すると、
継之助も京都詰を命じられており、
忠恭が老中となると公用人となりますが、
笠間藩8代牧野貞明を罵倒してしまい、
責任を取って辞任して帰郷します。

帰郷後は奉行職に就いて藩政を改革。
藩主の絶大な信任の下で藩学の一本化
軍制の西洋化風俗矯正
藩士知行の平均化を行い、
門閥弱体化と藩主権威の増大を図りました。
大政奉還王政復古と政局が急速に加速し、
長岡藩は徳川家擁護の方針をとり、
12代牧野忠訓は公武周旋に奔走。
鳥羽伏見の戦い旧幕府軍が敗れると、
継之助は藩邸や家宝を売却して、
軍資金を得て藩の軍備を整え、
新政府軍に中立の立場を主張しますが、
新政府軍監岩村精一郎はこれを一蹴。
長岡藩は新政府軍と戦う事になります。

近代的訓練と最新武装を施された藩兵は、
総督河井継之助の下で新政府軍を苦しめ、
一旦奪われた長岡城の奪還していますが、
継之助は左膝に被弾して重傷を負い、
長岡勢は劣勢となって会津に退却。
継之助は松本良順の治療をうけますが、
破傷風となって既に手遅れとなっており、
塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去しました。

継之助は長岡を荒廃させた張本人とされ、
新政府の命によって河井代右衛門家は断絶。
墓も何者かに何度も倒されたという。
現在でも継之助への非難がある一方、
継之助の改革や精神を評価する声もあり、
司馬遼で知名度も上がっており、
生家跡に記念館が設置されるなど、
長岡の英雄という評価もされています。

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