長岡藩は7万4000石の中藩でしたが、
北越戦争で新政府軍を散々に苦しめ、
その名を轟かせています。
藩庁長岡城は2度の陥落で殆どが焼失し、
僅かに残った建屋も売却されました。
跡地の本丸跡には長岡駅が建てられ、
曲輪や堀も全て埋め立てられて市街地に没し、
遺構は全く残っていません。
「JR長岡駅」。
遺構がないのは知っていましたが、
行ってこそ記事に出来るというものです。
「長岡城本丸跡」。
東口に碑が建てられています。
長岡城は堀直政の次男堀直寄により築城。
直寄は築城から2年後に村上に移封となり、
代わって牧野忠成が6万石で入りました。
後に7万4000石に加増されており、
城下町の拡充整備や新田開発を推進。
北前船の寄港地である新潟湊を発展させて、
その運上金で収入を得た他、
信濃川の水運利権も大きく活用し、
実高は表高を遥かに上回っていたという。
江戸中期以降は財政は逼迫していますが、
幕末には河井継之助が改革を推進。
知行100石以下の藩士は加増し、
それ以上の家は減知しており、
藩士の石高平均化を実施しました。
藩学も朱子学と古義学の2系統だったものを、
朱子学に限定して藩学を一本化。
軍制も西洋式へ移行しています。
王政復古後は徳川家を擁護。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、
江戸藩邸を処分して家財を全て売却し、
暴落した米を大量に購入して箱館で売る等、
軍資金を増やして最新兵器を購入しました。
河井は恭順派を兵に監視させて動きを封じ、
同時に抗戦派も抑え込んで藩政を掌握。
新政府や会津藩の協力要請を避けて
両軍の調停を行う事を新政府軍に申し出ます。
小千谷慈眼寺での談判には、
軍監の土佐藩士岩村精一郎が応対しますが、
岩村は後に佐賀の乱の原因を作った男で、
無能で横柄で思慮に欠ける人物だったという。
もちろん河井の提案も一蹴して談判は決裂。
仕方なく長岡藩は奥羽列藩同盟に加盟。
新政府と戦う事になります。
朝日山の戦いでは奇兵隊参謀時山直八を討ち、
同盟軍の協力を得て強固に抵抗。
この抵抗で窮地に立たされた新政府軍は、
背後の長岡城を奪いますが、
態勢を立て直して長岡城を奪い返しました。
しかしこの戦闘で河井は被弾してしまい、
新政府軍の攻撃で長岡城は再陥落。
河合ら長岡勢は会津に落ち延びますが、
その道中で河井は破傷風で死亡しています。
長岡藩の戦死者は309人とされ、
※戦死者には諸説あり。
戦後に長岡藩は5万石を没収されて再興。
大参事小林虎三郎による復興が行われますが、
支藩三根山藩から寄贈された米百俵を、
分配せずに売却して学校の充実に充てます。
「百俵の米は食べてしまえば無くなるが、
これを売って教育に充てれば、
後に明日の百万俵となる」
という趣旨で反対を押し切ってこれを実行し、
これが米百俵の逸話として伝わりました。
※小林虎三郎は佐久間象山門下で、
吉田松陰と象門の二虎と称せられていた。
河井も小林も立場や方針は違えど逸材といえ、
その他にも山本帯刀や三島億二郎等、
長岡藩には人材が多くいたようですが、
藩には侍の恥辱十七カ条という心構えがあり、
これが精神的支柱となっていたようです。
以下がその17カ条。
或人言 侍の恥辱は戦場におくれたる計には
あらずその外あまた品あり
第一 虚言又人の中を悪しく言ひなす事
第二 頭をはられてもはりても恥辱の事
第三 座敷にても路地にても慮外の事
第四 親兄弟の敵をねらはざる事
第五 堪忍すべき儀を堪忍せず
堪忍すまじき儀を堪忍する事
第六 叱言すべき儀を叱言せぬ事
第七 被官の者成敗すべきを成敗せざる事
免すべきを免さぬ事
第八 欲徳の儀に付て 人を出し抜く事
第九 人の手柄をそねむ事
第十 好色之事
第十一 贔負の人多き所にて 強みを出す事
第十二 手に足らぬ相手にがさつなる事
第十三 武功の位を知らずして
少しの儀を自慢する事
第十四 欲を先だて 縁類を求むる事
第十五 主君の仰せなりとて
御請申まじきを辞退なく
或は御暇を申すべき儀を
とかくして不申事
第十六 仕合よき人をは悪きも誉め
仕合悪しき人をばよき人を
もそしりあなずる事
第十七 我身少し仕合よき時はほこり
めてになりたる時はめいる事
右十七カ条、大方也、此外にもあるべし、
日頃穿きんし置くべし
【長岡藩】
藩庁:長岡城
藩主家:成定流牧野宗家
分類:7万4000石、譜代大名
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